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令外官の主な3つの種類とは?勘解由使・検非違使・蔵人頭

平安時代の改革として、有名なものの一つに令外官の設置があります。主な3つの令外官を置き、中央と地方の整備に力を入れました。

ここでは、令外官の3種類として知られる勘解由使・検非違使・蔵人頭を解説します。それぞれの役割を押さえ、しっかりと区別してください。

◆この記事でわかること◆
・令外官の定義
・代表的な3つの令外官
・薬子の変の内容

 

 

令外官とは

令外官とは、令に定められていない役職のことです。奈良時代初期、日本では法典として律と令がまとめられました。そのうち、令には行政組織に関する一般法が制定されています。

ただし、行政機関のなかでも令にない役職も存在しました。奈良時代の頃から見られたものの、平安時代になると種類がさらに増えます。令外官も種類によって役職が異なるので、主な違いを理解することが大切です。

律令の具体的な中身を知りたい方は、以下の記事も参照してください。

 

令外官の主な3つの種類

平安時代に置かれた令外官のなかで、特に有名な種類が3つ存在します。授業で初めて習った頃は、違いがあまり理解できず苦しんだ方もいるでしょう。

ここでは、それぞれの種類についてわかりやすく解説します。

勘解由使

勘解由使(かげゆし)は、国司を交代するときに引き継ぎを監査する役職です。国司は地方行政を管轄する役人であり、現代の県知事のような役割を持ちます。

当時の主な収入源は稲であり、その利得権をめぐって前任と後任のトラブルがたびたび見られました。そこで、引き継ぎの際には解由状を用いて勘解由使が公正に審査します。

平安時代中期や末期頃になると、政治体制も相まって次第に勘解由使の影が薄くなります。しかし、引き継ぎを正しく監査する姿勢は、現代社会にも形として残ったといえるでしょう。

検非違使

検非違使(けびいし)は、平安京の中の警備や裁判の仕事を担う機関です。現代でいえば警察や検察、裁判官の仕事を併用している状態です。

桓武天皇は、国家規模の軍団を廃止して対外的な軍事力を放棄していました。一方で、この取り組みで人々の統制を失い、社会秩序が乱れたともされています。

その秩序を整えるべく、検非違使が誕生します。

元々、これらの仕事は大宝律令時代で刑部省弾正台が担っていました。しかし、検非違使の力が強くなることで仕事を奪うような形になります。

検非違使は、平安時代末期に北面の武士が誕生したことで鳴りをひそめます。一時的とはいえ、平安社会を築くうえで大きく貢献した役職の一つです。

以下の記事では、刑部省を中心に八省を説明しているのでぜひ参考にしてみてください。

蔵人頭

蔵人頭(くろうどのとう)は、天皇の秘書官を主に担当していました。現代の役職では、内閣官房副長官あたりが仕事内容としては近い

こちらの役職が誕生した背景には、薬子の変があります。薬子の変の詳しい内容については後述します。

巨勢野足(こせののたり)と藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、初代の蔵人頭に任命されました。他の令外官と比べ、蔵人頭は江戸時代まで非常に長く続いたのが特徴です。

 

 

薬子の変とは

ここで、蔵人頭が設立されるきっかけとなった薬子の変について紹介しましょう。こちらの事件は、後の摂関政治にもつながった承和の変とも関係が深いです。

歴史は一つひとつの事件が細かく結びつくため、確実に押さえる必要があります。

一部高校日本史では習わないレベルの知識も出てきますが、背景を把握するための参考材料にしてください。

薬子の変の概要・背景

薬子の変とは、簡単にいえば嵯峨天皇と平城上皇が対立した事件です。彼らは、いずれも桓武天皇の子どもで同じ母から生まれた兄弟でした。

桓武天皇が崩御した806年以降、平城天皇が即位します。平城天皇は、藤原種継の子どもでもあった藤原仲成藤原薬子を重宝しました。

なお天皇は病弱だったこともあり、後の嵯峨天皇となる神野親王を皇太弟にするよう企てられていたようです。

程なくして平城天皇は病気を患い、神野親王に位を譲ろうと決意します。この考えに藤原仲成および藤原薬子は反対したものの、809年に嵯峨天皇が即位しました。

二所朝廷による争い

しかし、嵯峨天皇は平城上皇の設立させた役職(観察使)を廃止しようとしたため、2人の関係が悪くなります。特に、当時は天皇の位を譲っても上皇にも権力があるという見方は珍しくありませんでした。

こうした背景も上手く利用しつつ、藤原仲成と藤原薬子は平城上皇を政治に関わらせようと取り組みます。やがて二所朝廷の対立は深まり、後に淳和天皇が即位したときもひと悶着が起こりました。

なお、二所朝廷の争いによって観察使は廃止となり蔵人所が設置されます。この判断も、平城上皇からすると全く面白くありませんでした。

藤原薬子の自殺

平城上皇は、嵯峨天皇に対して平安京を廃止し、平城京へ遷都しろと突然命令を下します。その命令には、さすがの嵯峨天皇も堪忍袋の緒が切れました。

とはいえ、一度は命令に従ったフリをして坂上田村麻呂などの信頼の置ける者を平城京に送り込みます。そこから徐々に守りを固め、藤原仲成を捕らえることに成功しました。平城上皇一派だった貴族も、次々と監禁されます。

平城上皇は近畿から一度離れようと、東国(主に関東地方)に向かうことを計画しました。しかし、嵯峨天皇はいち早く情報を聞き入れ、坂上田村麻呂に阻止させます。

この頃、藤原仲成は律令の規定に沿って処刑されました

一方で、平城上皇と藤原薬子は東国に向けて移動を開始したものの、守りが固くて切り抜けることはできなかったようです。やむを得ず、彼らは平城京に戻ります。

結局、平城上皇と藤原仲成・薬子による反乱は失敗に終わりました。平城上皇は髪の毛を剃って仏道の世界に入り、藤原薬子は毒を飲んで自殺したそうです。

 

まとめ

今回は、平安時代の内容として令外官の紹介をしてみました。

  • 勘解由使
  • 検非違使
  • 蔵人頭

これらは、いずれも平安時代の政治を支えてきた重要な役職です。主にどのような仕事をしたかも踏まえて、内容を覚えておくとよいでしょう。

さらに蔵人頭が生まれた起因ともなった、薬子の変についても取り上げています。薬子の変は、天皇と藤原氏の関係性を知るうえでも押さえておきたい内容の一つです。

興味のある方は、ぜひ何度も事件の詳細を振り返ってみてください。

特に、平安京へ遷都した要因や坂上田村麻呂に関する記事も参考にしてみるのをおすすめします。