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平氏政権が短命に終わった理由とは?政治の特徴を徹底解説

平安時代〜鎌倉時代に移る頃、日本の政治を動かしていたのは平氏でした。

しかし平氏政権は、たったの30年程度で幕を閉じてしまいます。ここでは平氏政権が短命に終わった理由を解説すべく、主な政治の特徴を取り上げましょう。

 

平清盛の大出世

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平氏が政治の実権を握った理由は、平清盛の大出世にあります。彼は保元の乱と平治の乱の勝利者となり、幽閉されていた二条天皇を救出するといった活躍も見せました。

戦乱が終わったあとも上皇への奉仕を欠かさず、大きな信頼を獲得するようになります。平清盛自身は1167年に太政大臣(朝廷の最高職)となり、息子たち(重盛ら)も出世していきました。

なお保元の乱や平治の乱については、こちらの記事で詳しくまとめています。高校日本史を勉強される方は、ぜひ参考にしてみてください。

 

平氏政権の特徴

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平清盛の名前は知っていても、日本に与えた影響までは知らない人も多いはずです。平氏が主にどういった政治体制を整えたのかを解説しましょう。

藤原氏の政治と似ている

平氏政権の特徴は、藤原氏(摂関家)の政治と少し似ているところです。藤原氏は政治の実権を握るべく、自身の娘を天皇の嫁に出して義父・義子の関係を結びました。

平清盛も自身の娘である徳子を高倉天皇の后とし、その子である安徳天皇の外戚となって力を持ちます。

また平清盛の政治は、京都の六波羅に拠点を置いたため六波羅政権と呼ばれています。このように貴族の性質を持ち合わせていたのが、平氏政権の大きな特徴です。

摂関政治の内容については、以下の記事に詳しく書いているので読んでみてください。

武士との関係を深めた

貴族的な政治を展開した一方で、平氏政権は武力政治の特徴も持ち合わせています。平清盛は荘園や公領の領主を重用し、地頭に任命しました。

とはいえ平氏政権時代の地頭は、鎌倉時代と違って職務内容があまり判明していません。とりあえず、平清盛の傘下となったことだけを押さえればOKです。

さらに武士の中には、海賊や山賊を取り締まる追討使に任命された人もいました。受領として地方へ赴任したのもあり、現在の関東周辺にも勢力を拡大します。

日宋貿易に力を入れた

平氏政権は、日宋貿易に力を入れたのも大きなポイントのひとつです。

まだ保元の乱や平治の乱が起こる前の1126年、中国王朝である北宋は女真族(昔の満州)国家である「金」に戦で敗れてしまいました。この事件が靖康の変ですね。

華北を奪われた1127年以降の宋は、北宋と区別して南宋と呼ばれています。南宋時代の頃、民間において私的な貿易がさかんに行われるようになりました。

この南宋との貿易にいち早く注目したのが、商才のあった平忠盛(平清盛の父)でした。彼は独自に貿易を行い、それが平清盛時代で公認化されたのです。

ただし中国皇帝と日本天皇による、国交を目的とした朝貢貿易ではないことに注意してください。あくまで平氏政権が独自で行っていた貿易です。

日宋貿易において、平氏政権側は宋銭・書物(経典)・絹を中心に輸入しました。一方で南宋には、金銀・硫黄・工芸品などを輸出します。

 

平氏政権が短命に終わった理由とは

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勢いのあった平氏政権ですが、意外にもあまり長くは続きませんでした。なぜ平氏政権が短命に終わってしまったのか、その理由を詳しく解説しましょう。

後白河院近臣との衝突

平清盛を中心に、平氏は平治の乱が終わったあと瞬く間に出世を遂げました。彼らが官職に就けば、当然ながら位を剥奪された人間もいたわけです。その人からすれば、平氏の台頭は面白く思わないでしょう。

官位を剥奪されたのは、たいていは後白河上皇の家来(後白河院近臣)たちでした。こうして平氏一門と後白河院近臣の間に対立が生まれてしまいます。

建春門院の存在とその死

一方で争いへの発展を抑えていたのが、高倉天皇の母である建春門院(平滋子)の存在でした。建春門院は人柄に優れており、両勢力の衝突を抑えようと励んでいました。

平氏一門と後白河院近臣は対立しながらも、高倉天皇を擁立するという目的は同じでした。したがって高倉天皇の母には当然頭が上がらず、しばらくは衝突に発展しなかったわけです。

しかし建春門院は、病に倒れてしまい亡くなってしまいます。今まで平氏一門と後白河院近臣の間に立っていた人物の死により、当然ながら戦いの火蓋が切られました。

鹿ケ谷の陰謀

平氏一門と後白河院近臣の対立において、特に有名な事件が鹿ケ谷の陰謀です。高校日本史を取っている方であれば、一度は耳にしたことがあるでしょう。

この事件は後白河院近臣派であった藤原成親と西光、僧の俊寛によって起こされます。彼らは鹿ケ谷(京都郊外)に集まり、平清盛をどう討とうかを話し合いました。

しかしこれが平清盛の耳に入り、大量の軍を西光らの元に向かわせます。結局西光と俊寛は、かなり酷い拷問を受けたうえに処刑されてしまいました。

藤原成親は逮捕され、備前国へ流されます。愚管抄の記載によると、その地にて食事を与えられないまま亡くなったそうです。

後白河法皇を幽閉した

平氏政権が短命に終わった一番のきっかけとなったのが、平清盛による後白河上皇の幽閉でしょう。後白河上皇の捕まり具合もピーチ姫のようですが、この暴挙は多くの貴族の反感を買いました。

さらに平清盛は貴族らの位を奪い、独裁政治を敷こうと考えます。このやり方は短期間しか効果が出ず、長い目で見れば自分の首を締める要因となりました。

平清盛のやり方に反発したのが、後白河上皇の第二皇子である以仁王(もちひとおう)と源頼政です。2人は1180年に戦死してしまいますが、彼らの行動を機に多くの武士が打倒平氏を決意しました。

 

平清盛の最期

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平清盛は、平氏と源氏が争っていた治承・寿永の乱の最中に病気で息を引き取ります。死因も感染症・脳出血・肺炎とさまざまな説があり、どれが真実かはわかりません。

平清盛が亡くなったあと、平氏一門も治承・寿永の乱で大苦戦を強いられていました。最終的には壇ノ浦の戦い(山口県)において、安徳天皇とともに一門が海に沈んだといわれています。

源平の争いが終わり、鎌倉時代へと突入します。源頼朝が政治の中心に立ち、平安時代とはまた違った社会が訪れました。

 

平氏政権について思うこと

このように平氏政権は、上皇側との衝突もあって短命で終わりを迎えてしまいました。運が悪かった部分もありつつ、最終的には専制政治が平氏を狂わせたように考えます。

平清盛は、信西らが生きていた頃は慎重に物事を決めるタイプのように感じました。人望が厚いイメージもありますし、スピード出世に繋がったのも彼の徳によるものでしょう。

しかし権力を握ったことで内面の悪い部分が出たか、新たな人格を形成してしまったと個人的には考えています。愚管抄の記載内容とほぼ同じ評価ですね。

日宋貿易もそうですが、公共事業や通貨経済に目を付けたのは平清盛の素晴らしいポイントです。少なからず先見の明があり、政治面を中心に高く評価されていたといえます。