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摂関政治を簡単に解説|摂政と関白の仕組みを押さえよう

平安時代の中でも、特に摂関政治がインパクトに残っている人も多いでしょう。しかし言葉は分かるものの、具体的な仕組みがわからない人もいるはずです。

この記事では、摂関政治の制度についてなるべく簡単に説明します。摂政と関白の仕組みも詳しく取り上げるので、日本史の勉強を頑張っている人は参考にしてみてください。

 

摂関政治とは

摂関政治とは藤原氏が編み出した政治スタイルを指し、主に摂政と関白に国政を担当させる方法です。

平安時代の頃は、今と異なり天皇が大きな権限を持っていました。一方で藤原氏は権力の大きい天皇に近づくため、自身の娘を皇族の嫁に出すといった方法を採ります。

摂政と関白は、それぞれ行政の中枢を担う役職です。藤原氏は天皇と縁を結びつつ、こうした役職に就いて政治の実権を握ろうと考えます。

ちなみに摂政や関白の位に就いた者は、氏長者となり氏全体に大きな影響力を持ちました。摂関政治自体は院政が開始された1087年頃に影が薄くなるものの、摂政や関白の位はその後も息長く続きます。

 

摂政と関白の違い

摂政や関白の違いについて示している図

摂政と関白の仕組み

摂政と関白は、どちらも似たような役職に見えるかもしれません。しかし実務上では、全く仕事内容が異なります。摂政と関白の違いについて詳しく解説しましょう。

摂政=幼帝の代理

摂政とは、天皇が幼い場合に代わりに政務を担う役職のことです。この役職は、現在の日本国憲法でも残っています。

摂政に初めて就いた人物が藤原良房です。藤原良房も、日本史を学ぶうえで重要な人物となるので必ず覚えてください。

彼が摂政に就いたとき、天皇として即位していたのが清和天皇です。ちなみに清和天皇の当時の年齢は9歳でした。

関白=成人天皇の補佐

関白は、天皇が成人したときに補佐する役職です。天皇が幼いときは摂政として実権を握り、成人したら関白としてサポートに回るのが基本とされています。

これまでの歴史では藤原家の権力が衰えるとともに、影響力は次第になくなりました。とはいえ平安時代以降も役職自体は残っており、あの豊臣秀吉も就任した経験があります。

江戸幕府が崩壊し、王政復古の大号令が発令されてからは関白の名称は使われていません。後に復活を遂げた摂政との大きな違いです。

関白の位には、藤原基経が初めて就任します。彼は藤原良房の後に清和天皇の摂政となり、やがて関白に任命されました。

 

摂関政治と外戚

外戚の仕組み

摂関政治が誕生した当初は、太政大臣が担う仕事でした

太政大臣は太政官の最高の地位にあり、ふさわしい人物がいなければ空席になることもありました。

藤原基経の子や孫が摂政・関白の地位に立ち、とりあえず彼らを太政大臣に任命します。しかし上手く運営がいかなくなり、摂政・関白を独立させた方が政治を行いやすいことが判明します。

こうした背景もあり、摂政と関白は独立した役職として位置づけられました。ちなみに太政大臣は、そのまま名誉職となり明確な役割を持たない職となります。

加えて摂政と関白は、やがて天皇の外戚が就くようになりました。外戚とは、母方の父やおじのことを指します。当時は妻の父やおじが、子どもの面倒を見るのが普通だったからです。

この天皇の外戚であるか否かは、摂政や関白になったあとも重要な意味を持ちました。

 

摂関政治と藤原家

摂関政治と密に関わりを持つのは、主に平安時代で勢力を強めた藤原家です。藤原良房と藤原基経をはじめ、多くの藤原氏がこれらの位に就任しました。ここでは、覚えておいた方がいい藤原家と天皇家の人物を紹介しましょう。

朱雀天皇と藤原忠平

朱雀天皇と藤原忠平の名前を挙げましたが、彼らよりはその前後に目を向けるとよいでしょう。

このコンビの前後には、摂政と関白が置かれませんでした

朱雀天皇の前は醍醐天皇、後は村上天皇です。摂政と関白が置かれなかった醍醐天皇と村上天皇の時代は、延喜・天暦の治と呼ばれています。

後世になると、摂政や関白に左右されないで世を治めた時代として、後醍醐天皇などに高く評価されました。

しかし、摂政は天皇が幼いときに置かれる臨時職のような立ち位置です。関白も、摂政からエスカレーター式で任命される役職で、該当なければ置かないことも普通でした。

そのため後世の評価は、見解として誤っていると考えるのが主流となっています。

なお宇多天皇の頃も、寛平の治といって摂政や関白を置かない時代がありました。

三条天皇と藤原道長

摂関政治で氏長者による争いが激しくなったのが、藤原道長が実権を握っていた頃です。

藤原道長はこうした位を巡る争いに勝利し、子の藤原頼通とともに絶対的な権力を築いたのです。

なお藤原道長は三条天皇期には関白の位に立たず、あえて内覧の地位に留まりました。

この要因として関白には決裁権がなく、ほぼ名誉職化していたため実権を握り続ける立場にいたと考える説もあります。

後一条天皇の時代、藤原道長は病気の影響もあって藤原頼通に摂政の位を譲渡しました。

後一条天皇と藤原頼通

藤原道長とともに絶頂期を迎えた藤原頼通は後一条天皇の摂政および関白、後朱雀天皇および後冷泉天皇の関白として活躍しました。

特に平等院鳳凰堂を設立したのは有名です。

しかし大きな権力を築き上げた彼ですが、さまざまな困難が待ち受けていました。

その困難の要因となったポイントは、彼の娘には皇子が生まれなかった点です。そこで藤原頼通とは縁が遠い後三条天皇が、外戚に左右されない政治を整える遠因となりました。

また、前九年合戦や刀伊の入寇といった戦乱もたびたび起こります。こうして藤原頼通以降は、摂関家の影響力が小さくなってしまいます。

後三条天皇と摂関政治の衰退

こうした影響もあり、桓武天皇を意識していた後三条天皇は優れた知識人を重用しました。そこで選ばれたのが、大学頭かつ儒学者であった大江匡房です。

後三条天皇は摂関政治にこだわらず、荘園整理令を中心にさまざまな国政改革に取り組みました。

この頃になると、摂関政治の影響はどんどん小さくなります。

 

摂関政治は細かく制度を押さえよう

摂関政治は、藤原氏による政治と何となく覚えている人も少なくないでしょう。しかし政治の仕組みを理解していないと、思考力が求められる問題に対応し切れなくなります。

まずは摂政と関白の違いを覚えてください。摂政・関白の仕組みを理解したら、藤原氏がどのように絡んだのかを理解しましょう。特に、氏長者外戚は絶対に覚えておくべき重要用語です。

摂関政治はこのあとの時代に出てくる「院政」とも少し似ているので、しっかりと制度を勉強してください。