平安時代の天皇と藤原氏の関係を見ていくうえで、承和の変を押さえる必要があります。しかし学校ではほとんど触れられないため、詳しい内容を理解できていない方もいるでしょう。
この記事では、承和の変が起こった要因と具体的な事件の内容をわかりやすく解説します。高校日本史を勉強している方は、ぜひ記事を参考にしてみてください。
承和の変とは

承和の変とは、藤原良房が仁明天皇の側近を手を組み、皇太子(恒貞親王)を排除した事件です。842年に事件が発生し、藤原北家が台頭するきっかけになりました。
当時の藤原氏と天皇の関係を整理すると、初代蔵人頭に任命された藤原冬嗣は自身の娘(順子)を仁明天皇と結婚させ、天皇家に近づいていました。仁明天皇と順子の間には、後の文武天皇となる道康親王が誕生します。
しかし当時の皇太子には、すでに恒貞親王がいました。恒貞親王は嵯峨上皇の弟にあたる、淳和天皇の子です。
当時淳和天皇が即位していた頃は、正良親王(仁明天皇)を皇太子にしていました。その恩もあり仁明天皇が即位したときは、淳和天皇の子である恒貞親王が皇太子となります。
承和の変が起こった背景
承和の変が発生した理由として、当時の複雑な社会背景が絡んでいます。ここでは、承和の変が起こる前の政治体制などを詳しく見ていきましょう。
薬子の変が発生した
そもそも淳和天皇が、自分の子ではなく正良親王を皇太子にした理由は、薬子の変が関わっています。薬子の変とは、平城上皇と嵯峨天皇の対立により、最終的に藤原薬子が処罰された事件です。
平城上皇は元々天皇として即位していましたが、病気になってしまいます。その病気を祟りだと考えて、天皇の位を嵯峨天皇に譲りました。
一方で嵯峨天皇は、平城上皇が作った制度をどんどん改良していきます。平城上皇にとっては、こうした嵯峨天皇のやり方が面白くありませんでした。
結果的に両者は「二所朝廷」と呼ばれる対立を引き起こし、平城上皇に寵愛を受けていた藤原薬子が自殺してしまいます。嵯峨天皇は平城上皇の子を皇太子から外し、代わりに大伴親王(後の淳和天皇)を皇太子に選びました。
この恩もあり、淳和天皇時代に嵯峨上皇の子である正良親王を皇太子にします。薬子の変の詳しい内容については、以下の記事も併せて参考にしてください。
令外官の主な3つの種類とは?勘解由使・検非違使・蔵人頭 - 【資格の教室】ヤマトノ塾
恒貞親王が皇太子になる
淳和天皇は、天皇の位を仁明天皇に譲位しました。その際に仁明天皇は、淳和上皇の子である恒貞親王を皇太子にします。
このように天皇は自分の子ではなく、上皇の子を皇太子にする方法が一般化されました。特に皇位継承を巡るトラブルは起こらず、比較的安定した政治を実現できていたそうです。
藤原良房が力を伸ばす
この頃に藤原冬嗣の子である、藤原良房が天皇家に近づきます。彼は嵯峨上皇からも信頼を獲得しており、妹の順子が仁明天皇の妻になったことで、権力をさらに伸ばしました。
一方で藤原良房にとって、邪魔な存在となっていたのが恒貞親王です。ほかにも仁明天皇の側近には、仁明天皇と順子の間に生まれた道康親王を皇太子にしたいと考えている人がいました。藤原良房は、その側近たちと密かに計画を立てるようになります。
この動きに対し、恒貞親王と淳和上皇は強く警戒していました。淳和上皇は争いに巻き込まれるくらいなら、恒貞親王を皇太子から辞退させようと考えます。しかし嵯峨上皇に伝えたところ、保留となり辞退ができなかったようです。
淳和上皇の崩御
恒貞親王にとってさらに痛手となったのが、自身を守ってくれていた淳和上皇の崩御(死去)です。また嵯峨上皇も重病を患ってしまい、これまでの政治を続けるのが難しい状態となります。
この状況により、恒貞親王に仕えていた伴健岑と橘逸勢は、京都に留まるのは危険だと判断します。そこで平城上皇の子である阿保親王に対し、「関東地方に拠点を移して恒貞親王を守ろう」と提案しました。
しかし阿保親王への相談が、承和の変の引き金になってしまいます。
承和の変の内容
次に、承和の変にかかる具体的な騒動の内容を高校生向けにわかりやすく解説します。事件当時の出来事だけではなく、その後の政治についても押さえてください。
阿保親王が藤原良房に加担した
阿保親王は、伴健岑と橘逸勢の計画には賛同していませんでした。そこで皇太后に計画をすべて漏らし、皇太后は藤原良房に全部報告します。
伴健岑と橘逸勢の計画を知った藤原良房は、仁明天皇に報告しました。こうして仁明天皇は、伴健岑と橘逸勢の逮捕を命じました。
なお病に伏していた嵯峨上皇は、騒動が起こる2日前に亡くなったそうです。最終的に恒貞親王は後ろ盾がなくなり、藤原良房らに追い詰められていました。
伴健岑と橘逸勢の逮捕
阿保親王に話が伝わった1週間後の7月17日、仁明天皇は伴健岑と橘逸勢を逮捕しました。仲間もほぼ全員捕まり、都の動きを厳重に警戒させます。
恒貞親王については、一度罪はないとして罰を免れます。しかし7月23日になると、良房の弟である藤原良相(よしみ)が皇太子を取り囲みました。
そこで側近を逮捕し、恒貞親王も皇太子の座を廃止されてしまいます。こうして伴健岑と橘逸勢の計画は失敗に終わりました。
承和の変が起こったあと
承和の変で逮捕された伴健岑と橘逸勢、皇太子の立場を失った恒貞親王がどのような処罰を受けたかを解説します。
伴健岑と橘逸勢は、五刑の中でも4番目に罪の重い流罪となりました。この罪はいわゆる「島流し」のことで、政治の中枢に携わらせないようにして権力を奪うものです。
伴健岑は隠岐(島根県北東の島)に流されたのち、勅命(天皇の命令)で出雲(現在の中国地方北部)へ移動しています。
一方の橘逸勢は伊豆国(東海〜関東)に流される予定でしたが、護送している途中に病へ伏して亡くなりました。
廃太子となった恒貞親王は、出家して仏道の世界に入りました。最終的には仏の位まで到達し、大覚寺の初祖となります。
承和の変が起こった42年後、再び皇族では皇位継承が起こり天皇への即位候補として声が上がりました。しかし、本人自らが即位の依頼を断ったとされています。
なお藤原良房は、この機会を逃さずに政治で出世を果たしました。さらに藤原良房の思惑どおり道康親王が皇太子となり、藤原氏の権力がどんどん大きくなります。
承和の変のまとめ
承和の変は、仁明天皇の皇族と藤原良房が恒貞親王を廃位に追い込んだ事件です。恒貞親王は皇太子の身分を廃止され、その側近であった伴健岑と橘逸勢は流罪となりました。
恒貞親王を守ろうとした2人が阿保親王へ逃亡計画を話したところ、密告されて最終的に事件へと発展してしまいます。相談した相手を誤ったために、計画が筒抜けになることは日本の歴史でも少なからずありました。
高校日本史では、ここまで深く承和の変について習いません。しかし歴史を深い部分まで学んでいくと、当時の背景をより理解できるようになります。