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承和の変をわかりやすく解説!藤原氏北家の台頭について

平安時代は、藤原氏が天皇との結びつきを深めたうえで政治を行っていた時代でもありました。特に藤原氏北家が台頭したきっかけとなった事件として承和の変が有名です。

この記事では、承和の変が起こった要因と具体的な事件の内容をわかりやすく解説します。高校生で日本史を取っている方は、ぜひ記事を参考にしてみてください。

◆この記事で押さえたいこと◆
・恒貞親王と仁明天皇の関係性
・藤原氏と天皇の関係性

 

承和の変とは

承和の変(842年)とは、初代蔵人頭に任命された藤原冬嗣の子である藤原良房(よしふさ)が仁明天皇の側近と手を組んで恒貞(つねさだ)親王を排除した事件です。

藤原良房は藤原北家(藤原房前の家系)の一人であり、この一族の権力を示した発端にもなりました。

こちらの事件では、藤原氏が初めて武力によって他の氏に対して圧力をかけたと考えられています。後の摂関政治の基礎につながるともいわれる重要な内容の一つです。

 

 

天皇の家系について

承和の変の具体的な内容を説明する前に、天皇の家系について整理しましょう。藤原氏との関係がわからないと、理解が難しくなるのでしっかりと押さえてください。

まず、初代蔵人頭である藤原冬嗣(ふゆつぐ)は娘の順子を仁明(にんみょう)天皇の嫁にします。藤原不比等の時代から行われている、天皇との結びつきを深めるオーソドックスな方法ですね。

その仁明天皇と順子の間にできた子どもが道康(みちやす)親王(後の文徳天皇)です。

しかし、当時の皇太子としてすでに恒貞親王が存在していました。淳和天皇の子(次男)ですが、この辺りの天皇家の関係性が極めて複雑でした。

淳和天皇が即位した際は自身の子どもたちではなく、先代天皇かつ異母兄の嵯峨天皇の嫡出子である正良(まさら)親王(後の仁明天皇)を皇太子にします。

その後、仁明天皇が即位したときに恒貞親王が皇太子となりました

こうした複雑な継承により、恒貞親王は有力な後ろ盾を得られず父の淳和天皇も不安に感じていたようです。父の不安が、承和の変によって現実となってしまいました。

 

承和の変が起こった背景

承和の変の詳しい内容については、高校日本史ではほとんど触れられれません。そのため、事件があった事実さえ知っていれば試験には対応できます。

とはいえ、藤原氏の権力がさらに強まった理由がわかる重要な内容です。余裕のある方は、ここで紹介する承和の変が起こった背景にも目を通してみてください。

嵯峨上皇の政治は安定

「天皇の家系について」の見出しを読んだ方は嵯峨上皇の子どもを皇太子に就かせた淳和天皇の頃にも一波乱はなかったのかと疑問に感じるかもしれません。

そもそも、複雑な形で皇太子を任命した要因として「薬子の変」が挙げられます。

薬子の変は、嵯峨天皇時代に起こった事件です。嵯峨天皇は平城上皇の復活を狙っていたものの、失敗に終わって弟の淳和天皇(当時:大伴親王)を皇太弟に就かせます。

淳和天皇時代、嵯峨上皇の子ども(正良親王)を皇太子に就かせるのは反対も多かったとありますが、この辺りの真否は定かではありません。

ただし、嵯峨上皇は天皇の位を渡したあとも政治において大きな影響力がありました。この影響力により、複雑な継承問題があっても政治は安定していたと考えられています。

なお、薬子の変の内容については以下の記事で詳しくまとめているので参考にしてみてください。

藤原良房の急進

安定していた政治に、メスを入れた一人が藤原良房でした。彼は嵯峨上皇からの信頼も獲得し、さらに妹の順子が仁明天皇の嫁になったことで権力を手に入れる環境が整います。

大きな権力を持つ夢の実現に近づけるべく、順子の子である道康親王を皇太子にしようとする側近の計画に加わりました。当然ながら、この動きに対して現皇太子の恒貞親王は警戒します。

淳和上皇も危機感を覚え、争いごとに巻き込まれるくらいなら恒貞親王の皇太子を辞退させようと考えました。嵯峨上皇にその旨を伝えますが、保留にされて辞退できなかったとされています。

以前は、承和の変も藤原良房個人による陰謀が主な原因という見方が主流でした。しかし、藤原良房の身分はあくまで上から6番目程度にすぎず、現実的に難しいとされています。

現在は、仁明天皇の有力家来の計画に藤原良房も加担したという見解が一般的なようです。とはいえ、歴史にはさまざまな見解を支持する人がいます。何が正解かは、一概に決まっているわけではありません。

淳和上皇の崩御

不安定な状況をさらに濃くさせたのが淳和上皇の崩御(死去)です。

このとき、恒貞親王に仕えていた伴健岑(とものこわみね)橘逸勢(たちばなのはやなり)も危機感を覚えました。さらに嵯峨上皇も重病を患ってしまい、これまでの政治体制を続けるのは難しい状態に陥ります。

そこで、伴健岑と橘逸勢は平城天皇の子である阿呆親王(あぼしんのう)にある「恒貞親王を東国(関東地方)に移し、身を守らせよう」と提案しました。

しかし、残念ながら阿呆親王に相談したことが、かえって直接的に騒動へと繋がる引き金になりました。

 

 

承和の変の内容

次に、承和の変にかかる具体的な騒動の内容について解説します。内容を押さえつつ、歴史の背景を捉えてください。

計画が全て筒抜け

上述したとおり、承和の変が始まったきっかけは阿呆親王への相談でした。阿保親王は事の内容について、橘逸勢の従姉妹でもあった皇太后に伝えます。そこから秘密は藤原良房に渡り、最終的には仁明天皇の耳に入りました

続日本紀では、伴健岑と橘逸勢が阿保親王に相談したのが7月10日とされています。騒動が起こったのは、相談日からわずか1週間が経過した頃でした。

ちなみに、騒動が起こる2日前に嵯峨天皇が亡くなりました。

伴健岑と橘逸勢の逮捕

阿保親王に話が伝わった1週間後の7月17日、仁明天皇は伴健岑と橘逸勢を逮捕しました。仲間もほぼ全員捕まり、都の動きを厳重に警戒させます。

恒貞親王については、一度罪はないとして罰を免れます。しかし、7月23日になると良房の弟である藤原良相(よしみ)が皇太子を取り囲みました。

そこで側近を逮捕し、恒貞親王も皇太子の座を廃止されてしまいます。

承和の変が起こったあと

承和の変で逮捕された伴健岑と橘逸勢、皇太子の立場を失った恒貞親王がどのような処罰を受けたかを解説します。

伴健岑と橘逸勢は、五刑の中でも4番目に罪の重い流罪となりました。この罪はいわゆる「島流し」のことで、政治の中枢に携わらせないようにして権力を奪うものです。

伴健岑は隠岐(島根県北東の島)に流されたのち、勅命(天皇の命令)で出雲(現在の中国地方北部)へ移動しています。

一方の橘逸勢は伊豆国(東海〜関東)に流される予定でしたが、護送している途中に病へ伏して亡くなりました。

廃太子となった恒貞親王は、出家して仏道の世界に入りました。最終的には仏の位まで到達し、大覚寺の初祖となります。

承和の変が起こった42年後、再び皇族では皇位継承が起こり天皇への即位候補として声が上がりました。しかし、本人自らが即位の依頼を断ったとされています。

承和の変を含め、仁明天皇に関する内容はこちらの書籍にも詳しくまとめられています。興味のある方は、ぜひこちらの書籍も目を通してみてください。

 

 

承和の変のまとめ

承和の変は、仁明天皇の皇族と藤原良房が恒貞親王を廃位に追い込んだ事件です。恒貞親王は皇太子の身分を廃止され、その側近であった伴健岑と橘逸勢は流罪となりました。

恒貞親王を守ろうとした2人が阿保親王へ逃亡計画を話したところ、密告されて最終的に事件へと発展してしまいます。承和の変から、大事な話は人に言いふらすものではないと道徳の教材ができそうですね。

高校日本史では、ここまで深く承和の変について習いません。しかし、歴史を深い部分まで学んでいくと背景が少なからず濃くなります。

今後も、マト塾では日本史を細かく解説する記事を更新する予定です。興味のある方は、これからの投稿も楽しみにしてください。