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平将門の乱と藤原純友の乱を解説|武士が成長した背景について

日本史の平安時代と聞くと、貴族社会で穏やかなイメージを持つかもしれません。しかし平安時代は武士が成長した時代でもあり、戦乱も決して少なくありませんでした。

この記事では、その戦乱の中でも特に有名な平将門の乱と藤原純友の乱を解説します。併せて、武士が成長した背景も押さえましょう。

 

武士団の形成

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平将門の乱や藤原純友の乱を説明する前に、武士が成長した背景を先に押さえたほうが理解に繋がりやすくなります。

武士が誕生した要因には、さまざまな説があります。今のところ、何が正解なのかは分かっていません。

正直、高校日本史の勉強としては特に覚える必要はない部分です。とはいえ、こういった話が日本史をより面白くしてくれるので参考程度にご覧ください。

朝廷の武官が成長した

武士が成長した背景として考えられているのが畿内の地方豪族らの成長です。彼らは朝廷の武官として、武力を生かして貴族に仕えたと考察されています。

この頃、宮中の警備を担当していたのが滝口の武士です。他にも貴族の身辺や都の警備にも従事していたとされています。

国衙軍が武士になった

朝廷の武官が成長したと考える説のみでは、地方における武士の成長を完璧には説明できません。そこで地方に赴いた国司らが、兵の管理も行ったとする説もあります。

当時、政治体制が荒れていた地方に対しては、武力に秀でた役人が送られることもありました。土地の経済基盤を整えさせる一方で、豪族らの反乱を抑える目的です。

さらに国司が豪族と結びつきを深めつつ、武力も含めて主従関係を築くようになります。

武士に従う者のことを郎党と呼びます。彼らも馬に乗ることができ、兵士の一人として重要な役割を担っていました。

郎党と同じく、武士に付き従った一族(子弟)が家子(いえのこ)です。郎党と家子も、教科書には出てくる単語なので覚えておくとよいでしょう。

開発領主による武装

古くから存在する説として挙げられるのが、開発領主による武装です。

当時の日本では、国司の中でも大きな利益を得ていた受領が地方を支配していました。

開発領主の中には、受領の介入を面白く思わない人も一定数いたはず。この関係性に反抗すべく、武力を身に付けたと考える説です。

とはいえ、この説は基本的には否定されています。2024年現在の教科書では、開発領主を武士とする書き方は基本的になされていないようです。

 

平将門の乱

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豪族らが国司に反発し、大規模な戦乱に発展したのが平将門の乱です。高校日本史でも、重要な事件のひとつとして知られています。

平将門とは

まずは平将門という人物を詳しく見ていきましょう。

そもそも平氏の始まりを皆さんは知っていますか?

はじめに「平」の姓が与えられたのは高望王でした。高望王は天皇家の家系であり、桓武天皇の曽孫(ひ孫)にあたります。

本当かどうかは分かりませんが、「平」の姓も桓武天皇が築いた「平安京」から来ているともいわれています。

平将門は高望王の孫(良将の子)にあたり、下総(現在の千葉県北部)を根拠地としていました。

反乱が起こった原因

平将門は下総に拠点を置く前、都(京都)の官人として仕えていました。しかし父の良将が若くして亡くなり、地元の関東に戻ることにします。

しかしいざ帰ってみたら、所領の多くを叔父の国香に奪われていました。そこで平将門は、一族との争いを繰り返すようになります。

そんな最中、税を支払わずに追捕令(現在の逮捕状)が出されていた藤原玄明が、平将門の下へ逃げ込みました。彼らは手を組んで、国司に対して大反乱を仕掛けます。

これが939年(天慶2年)に起こった平将門の乱の始まりです。

反乱の流れと結果

平将門は、この反乱において快進撃を続けました。下野(栃木)と上野(群馬)を征服し、関東のほとんどの領域を支配するほどになります(このとき新皇と自称)。

朝廷もこのままでは危険だと感じ、征夷大将軍の藤原忠文を関東に向かわせます。

しかし、その前に平将門をある人物が倒しました。その人物とは、平将門に殺害された国香の息子である平貞盛です。

平貞盛は母方の叔父である藤原秀郷と手を結び、ついに北山の合戦で平将門を打ち破りました。

 

藤原純友の乱

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平将門の乱と同じ頃、現在の四国地方でも伊予(愛媛県)の国司だった藤原純友が反乱を起こしました。この背景についても解説しましょう。

藤原純友とは

藤原純友は、伊予の国司を担っていた一方で瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こした人物です。出自は藤原北家であり、日本初の関白となった藤原基経は大叔父にあたりました。

しかし父親が早くに亡くなったのが影響したからか、都で出世するのが難しく地方の官職に就きました。

反乱について、これらの環境が原因となっているかは定かではありません。説によっては、海賊と関わる中で彼らに同情の念を抱いたという見方もあります。

反乱の流れと結果

藤原純友の元々の仕事内容は、瀬戸内海を拠点とする海賊の取り締まりでした。しかし彼は海賊らと結託して、畿内への進出を果たしました。

最初は計画が順調に進み、2年後(941年)には太宰府を陥れるほどでした。

そこで朝廷は、藤原純友を捕らえるべく多くの兵を出します。この兵に参加していた者として、小野好古や源経基あたりが特に有名ですね。

平将門の乱と比べ、資料があまりないのですが結果的には計画は失敗に終わりました。

 

「承平天慶の乱」について

上記で取り上げた平将門の乱と藤原純友の乱は、実際に反乱が起きたときの年号を取って承平天慶の乱と呼ばれています。

ただし実際に国家への反乱に発展したのは、いずれも939年(天慶2年)の話です。それまでは豪族内の争いに過ぎませんでした。

このことから「承平」を含めず、天慶の乱のほうがふさわしいのではという声もあります。

とりあえず、承平天慶の乱も高校日本史では重要な範囲であるためしっかりと押さえてください。