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延喜の荘園整理令と延久の荘園整理令の違いをわかりやすく解説!

平安時代において、重要な要素のひとつが荘園です。

荘園は寺社や貴族の持つ土地を指し、9〜10世紀頃になると納税が免除されたものも続出しました。

しかし公領が圧迫されたことにより、延喜の荘園整理令や延久の荘園整理令が出されます。

ここでは、それぞれの整理令の違いを解説します。背景や具体的な内容を押さえ、共通テストを含めた受験対策に役立ててください。

◆この記事でわかること◆
・延喜の荘園整理令とは何か
・延久の荘園整理令とは何か
・それぞれはどのように異なるか

 

 

延喜の荘園整理令

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延喜の荘園整理令は、902年(延喜2年)に発令された荘園整理令です。醍醐天皇の時代に、国家財政を整える目的がありました。この荘園整理令が出された背景を細かくまとめましょう。

延喜の荘園整理令と背景

延喜の荘園整理令が出された理由は、悪質な荘園を排除するためです。

9〜10世紀頃、天皇の頭を悩ませていたのが税収が不安定になっていたことでした。

律令時代では、公地公民制といって土地は基本的に国が所有していました(公領)。しかし藤原氏を筆頭に貴族の権威が強まると、個人で所有する土地(荘園)がどんどん増えます。

初期荘園とは異なり、9〜10世紀頃になると不輸(免除)の権限も認められるようになりました。

荘園の権威が大きくなることで、徐々に圧迫されていったのが公領です。天皇は、はじめに悪質な荘園を排除して、公領の権威を取り戻そうと考えました。

主な実施内容

延喜の荘園整理令が目指したのは、荘園の新規開発をストップさせることです。同時に、悪質な荘園を取り締まるように試みます。

しかし貴族らの反発を恐れてか、国務の妨げにならないものはOKという例外規定も設けられました。

つまり正しい手順や目的で開発された荘園は、国が正式に認めるのをルール化したわけです。

延喜の荘園整理令の効果

延喜の荘園整理令が出されたことで、当時の日本にはどのような影響を与えたのでしょうか。背景として特に押さえてほしいポイントを解説します。

国司の権力が強くなった

延喜の荘園整理令で得た一番の収穫は、従来の律令体制が限界であると気づいた点です。

公地公民制の復活を目的に掲げたものの、地方政治の荒れ具合が問題視されていました。三善清行が提出した「意見封事十二箇条」にも、当時の政治への指摘がなされています。

そこで地方政治を国司に一任し、郡司の仕事を吸収するようになりました。

その象徴として挙げられるのが、国免荘の登場です。国免荘とは、国司によって不輸が認められた荘園を指します。

とはいえ国司の問題だったのが、有力な貴族との結びつきを深めようとした人が見られた点です。幅広い権限が与えられたのが仇となり、藤原氏のような権力者と近づくようになります。

ちなみに中央政府から税の免除を認められた荘園が官省符荘です。国免荘と併せて覚えるとよいでしょう。

受領による悪政が問題に

国司の悪政がひどくなった要因として挙げられるのが、受領という立場を生んでしまったことです。国司の最高位は受領と呼ばれ、役人の中でも特に大きな利益を得ていました。

やがて受領が税率を自由に設定できるようになり、徴税請負人として人々を苦しめていたわけです。

地方の特産物は国司らに安い値段で買収されるほか、出挙の利息も高くするといった手段を採っています。この行為はさすがに国民からの反感を買い、朝廷は訴えを提起されました。

その訴えが尾張国郡司百姓等解です(別名:尾張国解文)。

しかし問題を起こした張本人である役人の藤原元命は、結局一時的に解雇されただけで最終的には官職に戻るなど、効果はそこまでありませんでした。

自分の財産を朝廷の儀式に充て官職を得る成功(じょうごう)や同じ国の国司に務め直す重任(ちょうにん)が現れました。

また有力農民の田堵との結びつきを深め、官物や臨時雑役といった新たな税も誕生します。

  • 官物:租庸調に該当する年貢
  • 臨時雑役:行事があった際に働かせる税体系

税の対象となる土地は名(みょう)と呼ばれ、成人男性を中心に税を収めさせた律令とも支配体制が大きく変わりました。

荘園の抑制には繋がらず

延喜の荘園整理令において、一番の目的といえる荘園の抑制にはさほど効果が出ませんでした。例外規定を設けたことで、逆に荘園を公認化させる動きが広まったためです。

延久の荘園整理令と比べても、制度自体は真新しさがなく易しいものでした。荘園の領主からしても、この制度には対応しやすかったのかもしれませんね。

とはいえ、このような例外規定は後の荘園整理令にも適用されたそうです。

 

延久の荘園整理令

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延喜の荘園整理令のあとも、実際にはさまざまな荘園整理令が発令されました。

とはいえ高校日本史では、延喜の荘園整理令以外では延久の荘園整理令くらいしか習わないはずです。ここでは、この制度の特徴や効果を詳しくまとめます。

延久の荘園整理令と背景

延久の荘園整理令が生まれた背景には、これまでの荘園整理令にあまり効果がなかったのがあります。

延喜の荘園整理令以後もさまざまな荘園整理令が出されていたものの、中心となって仕切っていたのは国司でした。

そのため徹底した改善がなされず、荘園はどんどん増えてしまいます。

そこで後三条天皇は、延久の荘園整理令を出して全国的な政治改革を目指します。

主な実施内容

延久の荘園整理令の特徴は、国司ではなく天皇が中心となって改革に取り組んだ点です。そこで国が徹底的に審査できるように、記録荘園券契所(記録所)を設けました。

記録所は、適正な手続きがなされていない荘園を積極的に停止します。これまでの荘園整理令と比べると、非常に良い実績を残したのがポイントです。

延久の荘園整理令の効果

国が中心となって取り組んだ延久の荘園整理令は、従来のものよりも極めて厳しい制度でした。単純に荘園の乱発を防いだだけではなく、当時の日本経済にもさまざまな影響を与えます。

このような整理令を行えた要素として、1072年に登場した宣旨枡も大きく貢献しています。年貢を定める基準となり、国全体で統一されたため税を簡単に算定できるようになりました。

公領と荘園が明確に区別された

延久の荘園整理令の特徴は、公領と荘園が明確に区別されたことです。

また延久の荘園整理令が出されるまでは、国司と結びついた有力豪族が公領を支配する様子がたびたび見られました。

そこで国内を郡・郷・保と新たな単位に分け、有力豪族たちを郡司・郷司・保司に任命します。

好き勝手に荘園を開発するのを防ぎ、荘園以外の土地から税収を得ることに重点を置いたのが延久の荘園整理令です。

なお荘園と郡郷保(公領)を合わせた体制は荘園公領制と呼ばれています。

測量や課税に力を入れた

延久の荘園整理令により荘園公領制が整備されると、領主や田畑の状況を正確に把握しようと努めました。正確に測量すべく、作成されたのが大田文です。

当時は国司や在庁官人に作らせたといわれていますが、現代では鎌倉時代のものしか残っていないそうですね。

なお荘園と公領には、共通して一国平均役という税がかけられます。こちらは伊勢神宮の建設などに充てられたと考えられています。

延久の荘園整理令で明確に区別された荘園と公領でも、従来と同じく「名」の単位が使われました。後の「名主」と呼ばれる田堵(有力農民)に管理させます。

名主は従属させた農民(作人)に耕作を命じつつ、年貢・公事・夫役を領主に納めました。

 

両制度の違いをまとめよう

延喜の荘園整理令と延久の荘園整理令の違いを表でまとめてみました。

  延喜の荘園整理令 延久の荘園整理令
年号
(元号)
902年
(延喜2年)
1069年
(延久元年)
天皇 醍醐天皇 後三条天皇
主体 国司 中央(記録所)
厳しさ 比較的緩い 厳格に実行

名前が似ているので、最初はそれぞれの違いを押さえるのが難しいかもしれません。

正しく理解するには、背景をしっかりと見ておくことが大切です。

両者の荘園整理令が出された要因と、どのような効果を得られたかを重点的にチェックしてみてください。