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院政とはどのような政治か?仕組みを誰でもわかるように解説

平安時代を印象づける政治として、院政も欠かすことができません。小学校で習う単元ですが、意外と具体的な仕組みがわからない方も少なからずいるでしょう。

この記事では、院政の仕組みについて詳しく解説します。日本史を受験に使う方は、ぜひ記事を参考にしてください。

◆この記事でわかること◆
・院政の仕組み
・院政時代の日本社会と主な文化
・保元の乱の概要
 

 

院政とは

院政の仕組みをイラストで簡潔に示した図

院政の簡単なイメージ

院政とは、上皇(天皇の位を譲渡した者)が政治の実権を握るスタイルのことです。1086年に始まり、およそ100年以上にわたって続いたとされています。具体的な仕組みについて解説しましょう。

「院」の言葉の意味

院政の「院」の字は、時代が進むことで意味が変化しています。

元々は、上皇が住んでいる住居のことを指していました。一方で院政期の頃になると、上皇自身を指す言葉に変わります。

つまり院政は「上皇(院)が行う政治」という意味になります。

なお上皇が政治を行う拠点は院庁、そこに従事する職員は院司と呼ばれています。

加えて院庁から下される文書が院庁下文です。さらに院の命令は院宣とも呼ばれ、朝廷の権力の象徴にもなりました。

院政がスタートした背景

院政を最初に始めた人物は白河上皇です。彼はまだ8歳である堀河天皇に位を譲渡し、自身は上皇となって実質的に政治の実権を握りました。

この背景を押さえるうえで、重要な人物が後三条天皇です。元々、院庁を置いたのも後三条天皇でした。

彼は子どもである白河天皇に位を譲りましたが、自身は病のためすぐに亡くなってしまいました。引退した理由自体は病であると考えられていますが、院政の基盤を作ったとはいえるでしょう。

院政を行った理由

院政が行われた主な理由は、自分の子孫が確実に政治の実権を握るようにするためです。

とはいえ、一番最初に始めた白河上皇はそこまでの意図がなかったといわれています。彼はあくまで自分の息子に跡継ぎさせたかっただけであり、時代とともに院政の役割も大きくなっていきました。

後白河天皇時に起こった保元の乱も、院政の在り方が大きな影響を与えた事件のひとつでした(次の見出しで説明します)。

 

 

院政時代の社会動向

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院政の時代も、これまでとはまた違った社会の動きを見せています。中でも、特徴的なものを中心に取り上げましょう。

武士を積極的に登用

院政時代は、武士の力に頼った時代ともいえます。

朝廷では、上皇(院)の警備を担当させる北面の武士が大きな役割を持っていました。そのほか、内裏や院御所の警備を担っていたのが武者所です。

源義家や平正盛が武士団をつくり、側近として勤務した点も覚えたほうがよいでしょう。

武士の存在は、都だけではなく地方にも大きな影響を与えていました。特に有名なのが、平泉を拠点としていた奥州藤原氏です。

藤原清衡・基衡・秀衡の3代で勢力を築き上げ、北方の地域との交流を深めます。中尊寺金色堂は、今も岩手県の文化遺産として世界的にも知られています。

知行国制度と院分国制度

院政期は上級貴族への俸給制度として、知行国の制度と院分国の制度が普及しました。この制度は、安定した報酬を与えるべく貴族へ一国の支配権を与えたものです。

以前にも受領を地方に赴任させるなど、支配権を与える動き自体は行われていました。ただし報酬が不安定だった問題もあり、経済基盤を作るために再度制度が見直されたのです。

一方で院分国制度とは、院が直接的に収益を増加させる取り組みを指します。具体的には地方に赴任させる受領を選び、利益の一部を配当として受け取っていました。

いずれも上級貴族への収入源を確保させ、報酬によるトラブルを防ぐ目的があったと覚えてしまってOKです。

知行国制度は室町時代、院分国制度は南北朝時代まで続いたと考えられています。

院政により争いも起こる

院政の独特な政治体制が、後に大きな反感を買われることもありました。最終的には、朝廷を巻き込んだ戦乱へと発展してしまいます。

その例として、代表的な反乱が保元の乱です。

保元の乱とは、後白河天皇と崇徳上皇による跡継ぎ問題を発端とした戦乱を指します。

鳥羽天皇期には平氏が着々と力を付けており、中でも平清盛は大きな権力を握っていました。平氏は院の側近として、重宝されるようになります。

一方で源氏も影響が大きくなっており、関東地方を中心に武士と繋がりを持っていました。鳥羽天皇は源氏との結びつきを深め、独裁体制を築いていたわけです。

ただし鳥羽天皇が多くの所領を手に入れたことは、子孫が跡継ぎに対する執着心を強める結果となりました。親が莫大な財産を持っていると、相続の争いが激しくなるのと同じ原理です。

以前から鳥羽天皇と対立を深めていた崇徳上皇は、鳥羽天皇の崩御を契機に源為義や藤原頼長と距離を縮めます。しかし鳥羽派だった後白河天皇は、平清盛や源義朝と手を組んで崇徳上皇を破りました。

このように上皇と天皇の間で関係が悪くなるとこうした問題を生んでしまうのが、院政のデメリットです。

 

院政時代の文化

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特定の時代や社会的背景は、しっかりと文化にも表れます。裏を返せば、文化を押さえると時代の特徴を捉えることができます。

共通テストでも、さまざまな作品から当時の時代背景を問うケースが少なくありません。しっかりと正答できるように、作品がいつ作られたのかを押さえるのが大切です。

軍記物語が多数生まれた

院政は、貴族と武士の関係が良い意味でも悪い意味でも深まった時代です。経済的基盤を確保するうえで武士の存在は欠かせなかったものの、その一方で各地で反乱が生まれる要因にもなりました。

こうした時代背景は、「将門記」や「陸奥話記」といった軍記物語にまとめられています。なお将門記は将門の乱について、陸奥話記は前九年合戦について記した書物です。

絵巻物も多く作られた

貴族と武士の関係は、書物以外に絵巻物でも表現されたのが院政文化の特徴です。その中でも「源氏物語絵巻」は特に有名で、見たことがある方も一定数いるでしょう。

他にも、庶民の様子が絵巻で表現されています。下記の作品は、特に覚えておくのをおすすめします。

  • 伴大納言絵巻(ばんだいなごん)
  • 信貴山縁起絵巻(しぎざんえんぎ)
  • 鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)
  • 年中行事絵巻

庶民的文化が愛された

院政期は、貴族が庶民の文化を愛した点も大きな特徴のひとつです。こちらも貴族と庶民の距離が近づいた故の影響といえます。

具体的には、田楽や散楽が貴族に親しまれた時代でした。

また後白河上皇は、庶民の間で流行っていた歌謡に興味を抱いていました。今様(現代的歌謡)を編纂した「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」は特に有名です。

ほかにも日本や漢の俳句が親しまれたり(朗詠が流行る)、「大鏡」「今鏡」といった歴史書が完成したりと非常に濃い文化だったことが見受けられます。

 

院政の勉強ポイント

院政の内容を勉強する際には、上皇と天皇の関係をしっかりと押さえてください。天皇はプロ野球選手の監督、上皇は球団のオーナーと考えるとよいかもしれません。

院は大きな権力を持つために、北面の武士を中心に武士たちとの距離を縮めます。結果的に、これが貴族に庶民的文化の人気が高まった要因にもなりました。

このように政治の動きは、人々の暮らしや文化にも色濃く反映されます。日本史の勉強は、社会的な背景に重きを置くようにしましょう。

なお私のYouTubeチャンネルでは、日本史のトピックも扱っています。今後も歴史関連の動画を増やしたいと思うのでチャンネル登録をお願いします!

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