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保元の乱と平治の乱が起こった理由|平氏が台頭した背景を解説

平安時代の後半になると、平氏が大きな権力を持つ時代となりました。その転換点となったのが、保元の乱と平治の乱です。

歴史を勉強するうえで、これらの違いがいまいちわからない方も少なくないでしょう。この記事でそれぞれの戦乱を紹介しつつ、平氏が台頭した背景についても触れます。

日本史を勉強されている高校生〜大人の方におすすめの記事です。

◆この記事でわかること◆
・保元の乱の内容と具体的な人間関係
・平治の乱の内容と具体的な人間関係
・平清盛のその後の活躍
 

 

保元の乱とは

保元の乱とは、兄弟である崇徳上皇と後白河天皇の皇位継承問題が大戦乱に発展した事件です。京都で大戦乱を起こったのが珍しく、貴族にも大きな影響を与えました。どういった流れで戦いに発展したかをまとめます。

崇徳上皇と後白河天皇

天皇の家系図を示している図

天皇家系図

保元の乱の遠因には、院政が挙げられます。院政とは天皇の権利を譲った上皇が、事実上政治の権限を握る政治のことです。

子孫へ確実に皇位継承権を渡すために院政が行われましたが、上皇派閥と天皇派閥に派閥が二分化させる要因にもなりました。保元の乱は、二大勢力の争いを大規模で行ったわけです。

鳥羽法皇から権利を譲られた崇徳天皇は、さらに近衛天皇に位を譲って上皇となります。ところが、近衛天皇は病弱で17歳にしてこの世を去ってしまいました。

崇徳上皇は、近衛天皇の跡継ぎを自身の息子である重仁親王にと考えます。しかし、藤原頼長と手を組んだ崇徳上皇を快く思わなかった鳥羽法皇は、同じく息子(崇徳上皇の兄弟)の後白河天皇を即位させました

院政の詳しい内容については、以下の記事でも詳しく解説しています。

保元の乱のはじまり

保元の乱のはじまりは、後白河天皇の参謀となった信西(藤原通憲)が執拗に崇徳上皇や藤原頼長を挑発したからと考えられています。

信西は、崇徳上皇の身辺にいる武士を逮捕するなどと動きを封じました。また藤原頼長に謀反の疑いをかけさせ、財産を没収するといった強硬手段を執ります。

実際には、頼長親子は謀反の動きを見せていたわけではありませんでした。しかし度重なる信西の挑発に追い詰められ、とうとう武力を持って本当に反乱を起こします。

保元の乱の内容と結果

保元の乱の両軍について簡潔にまとめている図

保元の乱の勢力

結論から述べれば、保元の乱は後白河天皇側が勝利しました。崇徳上皇は讃岐(香川県)へ流され、藤原頼長は戦いの傷が原因で死亡します。

後白河天皇は信西を参謀に、平清盛や源義朝も味方に引き入れます。有力な人員が数多く集まったこの様子は、「軍、雲霞の如し(雲や霞が広がるように軍が集まるさまに例えられました。

後白河天皇側は先制攻撃、それも夜襲を仕掛けて崇徳上皇側を混乱に陥れます。源義朝が画策した火攻めが見事にハマり、崇徳上皇や藤原頼長は行方をくらませました。

その後、崇徳上皇は自ら出頭して身柄を拘束されます(後に流罪となる)。戦いで重傷を負っていた藤原頼長は、父の忠実に見捨てられる形で叔父の下へと逃げ込みましたが、傷が酷くて死亡しました。

こうして後白河天皇が地位を安定させた一方で、摂関家は信用を失って勢力はほとんどなくなりました。

 

 

平治の乱とは

平治の乱は、平氏と源氏の戦いとして非常に有名です。詳しい背景を知らなくとも、何となくイメージできる方も数多くいるでしょう。ここでは、政治や社会背景に着目しながら平治の乱を解説します。

平治の乱が起こる背景

まずは平治の乱そのものを説明する前に、具体的な時代背景を触れます。高校日本史では踏み込みすぎた内容ではあるため、参考程度に読んでみてくださいね。

信西および平清盛の台頭

保元の乱で大活躍を見せた信西は、朝廷からも信任を受けて政治の中心に立っていました。信西は平清盛を特に重宝し、平氏が台頭するきっかけを作ります。

しかし道鏡の件もそうですが、ぽっと出で現れた人物が政治の中心に立つのに快く思わない人が出てくるのは当然のことです。次第に、信西に対して反感を抱く人々も増えるようになりました。

後白河上皇派と二条天皇派

美福門院を中心にして天皇の家系図を示したイラスト

美福門院と二条天皇の関係

信西の障壁となっていたのが、美福門院(鳥羽法皇の后)の存在です。彼女は自身の養子である二条天皇への跡継ぎを希望しており、信西に対しても強く希望を要求していました。

一方で信西は、美福門院の要求を拒否できません。なぜなら後白河天皇の即位自体、元々は幼かった二条天皇への中継ぎが目的だったためです。

1158年、後白河上皇から二条天皇への皇位継承が実施されました。しかし、ここで派閥が後白河上皇派と二条天皇派に二分化されます。

藤原信頼と源義朝が手を結ぶ

二分化された派閥に、武力的な争いを生んだ要因となったのが藤原信頼でした。彼は後白河天皇期に信任されたのち、スピード出世を果たして権威を強めます。

藤原信頼の一族は、元々東北〜関東(武蔵)の支配権を持っていました。その関係もあり、この地域と縁のある源義朝と関係を深めます。

藤原信頼は信西と同じく後白河上皇派閥の人間でしたが、二人は政治の在り方を巡って対立していました。やがて後白河上皇派、二条天皇派のどちらも信西排除の動きが広がります。

つまり平治の乱の時期になると、二条天皇派・後鳥羽上皇派・信西派の3つに分かれていたわけです。

平治の乱のはじまり

平治の乱のはじまりは、信西への襲撃にあるともいえます。後白河上皇派と二条天皇派のどちらにも反感を買っていた信西は、もはやいつ暗殺されてもおかしくない状況でした。

1159年、反信西派は平清盛が外出したタイミングを見計らって彼の住居を襲撃しました。信西は事前に避難しており、土に埋めた箱の中に身を隠していたようです。

しかし隠れているのがバレてしまい、最終的には掘り起こされて信西はそこで自害しました。

藤原信頼は権力を握ろうとしたのか、後白河上皇と二条天皇をともに内裏に監禁します。これが藤原信頼が両派閥から嫌われた決定的な要因となりました。

六波羅合戦と結果

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藤原信頼自身は、平清盛が仲間になってくれることを信じていました。一方で都に戻った平清盛のもとに、二条天皇派が手を結ぶように接近します。

平清盛は二条天皇派の誘いを受け入れ、幽閉されている二条天皇の救出作戦を実行しました。仲の良かった藤原尹明の活躍もあり、無事に二条天皇の奪還に成功します(同じく幽閉されていた後白河上皇はスルーされたようです)。

この奪還作戦を成功させてしまった藤原信頼に対して源義朝は激怒。最後の手段として、武力によって平清盛たちを討とうとしました。

とはいえ、ただでさえ賊軍とみなされている藤原信頼です。彼に協力して、ともに未来を歩もうとする人はそこまでいませんでした(清盛軍の約1/4程度)。

内裏を戦場にするのを避けたかった平清盛は、藤原信頼の軍を六波羅に誘い込みます。

結果的に藤原信頼軍は、瞬く間に大敗北を喫しました

平治の乱後の状況

最後に、平治の乱が終わったあとの状況もまとめます。平安時代〜鎌倉時代への移行を知るカギとなるので、しっかりと目を通してください。

藤原信頼は処刑される

藤原信頼については、「平治物語」「愚管抄」にてボロクソに書かれています。本当に同情したくなるくらいのボロクソ具合なので簡単に紹介しましょう。

戦乱から何とか逃げた藤原信頼は、源義朝に関東へ逃げ込もうと誘います。しかし源義朝のブチ切れ方は尋常でなく、散々罵ったあげく彼の誘いを拒絶しました。

行くあてのなくなった藤原信頼は、最後の望みであった後白河上皇に許しを請おうとします。ただし散々やりたい放題やった藤原信頼を、後白河上皇は許すはずがありませんでした。

最終的には平清盛にも命乞いをしますが、処刑の決断が下されて斬首されます

源義朝の死と頼朝の流罪

源義朝は、頼朝などの子どもたちと敗走を続けました。朝廷側の追手は、彼らを執拗に追いかけます。馬も失い、最終的には裸足で逃げ回っていたようです。

何とか古くからの家来の住居へ逃げ込み、匿ってもらおうとしましたが家来はすぐに裏切りました。結局、源義朝はその場で殺害されてしまいます

源義朝の死から約1カ月後、源頼朝も朝廷に捕らえられます。最初は死刑される予定でしたが、平清盛の継母が願い出たことで伊豆に流罪となりました。この判断が結果的に源頼朝の復活、鎌倉時代の到来に繋がります

二条天皇と後白河上皇

二条天皇と後白河上皇は、平治の乱が終わったあとも冷戦状態が続いていました。その最中、美福門院の死亡もあって後白河上皇の力が再び大きくなります。

これを危険視した二条天皇は、平清盛と藤原尹通の2人と一層距離を縮めました。

1161年、そんな二条天皇に絶好のチャンスが訪れます。後の高倉天皇を皇太子にしようとした陰謀が明るみに出て、後白河上皇が政治の舞台から引きずり降ろされたのです。

後白河上皇は一時的に政界から姿を消しますが、その後も日宋貿易の推進をサポートしたり、鎌倉時代の政治基盤作りに貢献したりと随所で活躍しました。

二条天皇は政治の秩序を正そうと、荘園整理令を積極的に出します。ただし自身は病に倒れてしまい、23歳の若さで亡くなりました。

 

平氏の台頭へ

イメージ画像

保元の乱と平治の乱により、最も権力を強めたのは平清盛です。彼は後白河上皇からも信任を得て、太政大臣の地位に上り詰めました。子どもの平重盛も大出世を果たし、平氏の全盛期が訪れます。

ただし、平清盛は太政大臣の位をわずか3カ月間で退任しました。その理由は、福原京の建造に力を入れるためといわれています。福原京が完成して厳島神社にも目を向けると、宋(中国)との貿易を重視するようになりました。

 

2つの戦乱を押さえるコツ

今回は、保元の乱と平治の乱について詳しく解説しました。高校日本史のレベルであれば、このブログの内容を全部覚える必要はありません。

しかし藤原信頼や信西あたりは出てくるので、それぞれの人間関係を把握することがコツです。そうすればなぜ争いが起きたのか、どういう戦いだったかが理解できます。

ついスルーしてしまうかもしれませんが、教科書や資料集にある家系図はしっかりと目を通しておきましょう。人間関係を把握するうえで、家系図は特に役立つ資料のひとつです。