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治承・寿永の乱とは?源頼朝の快進撃と鎌倉幕府への道

平安時代後期に最も力を付けていたのは、平清盛を中心とする平氏政権でした。しかし平氏の暴走に加え、源頼朝が復活を遂げたことで世代交代の波が押し寄せます。

この記事では、源氏の勢力が大きくなった要因でもある治承・寿永の乱を解説します。高校日本史でも非常に盛り上がる範囲であるため、各戦乱の内容と流れをまとめましょう。

◆この記事でわかること◆
・治承・寿永の乱の細かい背景
・源氏や平氏内の人間関係
・平氏が治承・寿永の乱で敗れた理由(考察)

 

 

治承・寿永の乱の経緯

治承・寿永の乱において、平氏最大のライバルとなったのが源頼朝です。彼は伊豆に流された後、以仁王の縁もあって再び打倒平氏のため立ち上がりました。

ここでは、源頼朝と平氏の戦いを中心に解説しましょう。

石橋山の戦い

戦いの火蓋が切られたのは、現在の静岡県にあたる石橋山(1180年8月)でした。源頼朝が、平氏一味の大庭景親を討つべく石橋山の戦いが繰り広げられます。

約300騎で望んだ源頼朝ですが、大庭景親の軍は約10倍にも及ぶ3000騎ほどでした。何とか踏ん張ろうと試みるものの、人数があまりにも違いすぎて圧倒されてしまいます。

大庭景親は進撃の手を緩めず、源頼朝を討とうと前へ前へ進みます。反平氏軍は、源頼朝だけでも生き延びさせようと考え、あえて全員が散り散りになって逃げました。

この石橋山の戦いでは、梶原景時と源頼朝の関係性もまた有名です。梶原景時は元々源氏の家来でしたが、平治の戦いで源氏が敗れてからは平氏の武士となりました。

彼は逃げ回る源頼朝の居場所を知っていたものの、以前お世話になった恩もあってか「ここに頼朝はいない」と大庭景親を別の山に誘導します。

源頼朝は梶原景時に大変感謝し、鎌倉時代では彼を重要な役職(侍所所司)に任命しました。

平氏打倒を掲げた源氏でしたが、初戦は目も当てられないくらいの惨敗を喫したのです。

富士川の戦い

石橋山の戦いで大敗を喫してから約2カ月後(1180年10月)、次は富士川の戦いで平氏と源氏が争います。しかし今度は一転して、源氏が大勝利を収める形となりました。

平氏側で軍を率いていたのが、平清盛の孫にあたる平維盛(これもり)です。彼らは10月22日に到着する予定でしたが、縁の良い日を選ぶかどうかで副将と揉めていました。

その結果1週間ほど到着が遅くなり、源氏軍の体制を整えるチャンスを与えてしまいます。

源氏は歩みを進める中で兵をどんどん集め、最終的な人数は平氏軍より20倍も多かったとされています。

平氏軍は士気が一気に下がり、本格的な戦闘が始まる前に逃げてしまいました。一説によれば、水鳥の飛び立つ音を相手軍と勘違いして逃げたともいわれています。

なお富士川の戦いについては、源頼朝よりも甲斐源氏(武田氏の先祖)の存在が大きいとする見方のほうが強い印象です。「吾妻鏡」が話を盛り上げようと、源頼朝主体の物語にしたのかもしれませんね。

倶利加羅峠の戦い

富士川の戦いで逃走劇を遂げた平維盛軍は、リベンジを果たすべく再度軍を仕向けます(1183年)。その平維盛軍と対峙したのが、源頼朝の従兄弟(いとこ)にあたる源満仲です。

源満仲は、火打城の戦いで平家に敗れて越中(富山県)に一度後退します。数ヶ月経過し(1183年5月)、倶利加羅峠において再び両軍の合戦が始まりました。

この合戦のポイントは、源満仲があえて昼間に戦を仕掛けなかったことです。相手が油断していた夜中に攻撃を開始し、約7万もあった平氏軍は大混乱に陥りました。

とりあえずその場から逃げようと試みますが、電気もない当時の夜中の山中です。真っ暗闇の中で逃げ回ったため、倶利伽羅峠の崖に気づかず大半が転落死しました。

平氏軍は三種の神器を持ち出して、安徳天皇を匿う形で九州の太宰府に落ち延びます

宇治川の戦い

宇治川の戦いは平氏と源氏ではなく、源氏同士の争いです。教科書には出てきませんが、流れを知るうえでは重要な戦いになるので記事では紹介します(受験用に覚える必要はありません)。

倶利加羅峠の戦いと篠原の戦いで大敗した平氏軍は、安徳天皇とともに九州の太宰府へ逃げ込みました。

一方の源義仲は都を支配しようと務めましたが、そのやり方に失敗して後白河法皇と対立します。後白河法皇が源頼朝へ助けを求めたことに憤慨した義仲は、彼を幽閉しました。後白河法皇は、またもやピーチ姫具合を発揮してしまったのです。

義仲の暴走具合に部下もどんどん離れてしまい、彼は平氏と和平を結ぼうとしました。しかし平氏側はこれを断り、源頼朝は弟の範頼と義経に義仲を討つように命じます

義仲は暴政も災いして、兵が1000騎ほどしかありませんでした。対する範頼と義経は、4万騎ほどを従えて攻めたそうです。

兵力差を考えれば義仲は粘りましたが、怒涛のごとく押し寄せてきた義経が後白河法皇を救出します。義仲は後白河法皇の奪還を諦めて瀬田(滋賀県大津市)に移動しましたが、そのタイミングを範頼に狙われました。最終的に義仲はそこで討ち死にします

一ノ谷の戦い

源氏の身内で揉め事が起こっていたなか、平氏は軍の体制を着々と整えます。準備が整った平氏が攻めてくるのが分かると、後白河法皇は源頼朝に平氏討伐の命令を下しました(1184年2月)。

こちらもさまざまな細かい戦いがあるのですが、特に有名なのは「逆落とし」です。源義経軍は険しい山道を超え、平氏陣営を見下ろせる断崖絶壁の上に登りました。その場所が一ノ谷と言われる場所です(諸説あり)。

平氏軍はまさか相手が断崖絶壁を登れるとは思わず、山の方には警戒心を抱いていませんでした。その油断につけ込んだ義経は、時期到来と山を駆け下りて攻め込みます。

大混乱に陥った平氏軍は海の方角へ逃げ出し、何とか屋島(香川県)にたどり着いたそうです。この戦いでも、平氏軍は大きな犠牲を出してしまいました。

なお逆落としについては、平家物語の創作話ではないかとする見方もあります。

屋島の戦い

一ノ谷の戦いに敗れた平氏軍は、瀬戸内海を超えて屋島で体制を整えようと考えました。

その頃、さすがに限界を迎えた平宗盛(清盛の三男)は三種の神器を返還しようと後白河法皇に打診します。しかし平氏討伐を掲げていた法皇は、その声に耳を傾けませんでした。

さらに後白河法皇は安徳天皇の排除を決定し、三種の神器を持たないまま後鳥羽天皇に位を譲ります。この決定により、朝廷側は安徳天皇と平氏を完全に見放したのです。

そこで最後の大仕上げとして、屋島に逃げ込んだ平氏を討つよう源氏軍を向かわせました。ただし海の戦いに慣れてなかった源氏は、大きな犠牲を出してしまいます。

嵐の中であえて奇襲を試みたものの、効果があったのは序盤だけで危うく源義経を戦死させるほどの大苦戦を強いられました。

後日、平氏軍から女性が出てきて「竿に付いている扇を矢で射てみなさい」と挑発します。源義経はこの挑発に対抗し、那須十郎に射るよう命令しました。那須十郎は「源氏の名を汚してはいけない」と、失敗したら自害する覚悟で挑みます。

結果は矢が扇を貫き、見事相手の挑発に打ち勝ちました。それを見た平氏軍の一人が感動し、踊りだしたところを那須十郎に射殺されます。

勢いに乗った源氏軍は平氏軍をどんどん追い詰め、治承・寿永の乱の最終舞台である「壇ノ浦の戦い」に突入しました。

壇ノ浦の戦い

源氏軍から逃げていた平氏軍は、壇ノ浦(山口県)まで追い詰められました。

そこで源義経は、壇ノ浦の戦い(1185年3月)で戦を仕掛けます。しかしこの戦いで主要となったのも水軍での争いでした。

屋島の戦いでも説明しましたが、水軍で優れているのは平氏軍のほうです。壇ノ浦は潮の流れが変わりやすく、平氏軍は弓矢による攻撃で猛攻撃を仕掛けます。そのため、源氏軍の初戦は大苦戦を強いられました。

しかし潮の流れが変わったタイミングを察知し、源氏軍は反撃の狼煙を上げます。平氏軍はとうとう追い詰められ、安徳天皇とともに武将たちが海に沈みました

こうして約4年半の年月がかかった治承・寿永の乱は、平氏敗北の形で終焉を迎えます。すぐに鎌倉時代へ突入し、これまでとは違った社会が日本に誕生しました。

 

 

平氏が没落した要因

治承・寿永の乱が始まる以前は、平氏が朝廷を掌握するほど強い権力を握りました。水軍を中心に、軍の統率も決して悪くなかったはずです。

その平氏がなぜ治承・寿永の乱に敗北したのか、背景について考えられることをまとめます。

重要人物の相次ぐ訃報

平氏が治承・寿永の乱で敗れた原因として、平清盛や平重盛が早くして亡くなったのが挙げられます。

平重盛の死

保元・平治の乱で活躍した平重盛(清盛の長男)は、後白河上皇と接点の多いポジションに立ち清盛の貢献者として期待されていました。

しかし可愛がっていた藤原成親が鹿ケ谷の陰謀を起こし、関係の深かった重盛は信用を落としてしまいます。せっかく地位を築いたにもかかわらず、それが揺らいだことで政治に対するモチベーションがなくなりました。

最終的には治承・寿永の乱が始まる前の1179年、重盛は病に倒れて42歳の若さで息を引き取ります。才能は認められていながらも、不運と病気が重なって優秀な跡継ぎがいなくなったのは悪影響となったはずです。

保元・平治の乱や鹿ケ谷の陰謀の詳しい内容は、以下の記事を参考にしてください。

平清盛の死

重盛が亡くなったあと、平清盛も治承・寿永の乱の最中(1181年)に死亡します

清盛は平氏においても中心人物であり、彼の死は大きな影響を与えたでしょう。個人的な見解にはなりますが、清盛が生きていたら平氏ももう少し長生きしたのかもしれません。

ちなみに清盛が亡くなる以前には、安徳天皇の父である高倉天皇も死亡しました。重盛も加えると、朝廷の重要人物が立て続けにこの世を去ってしまったのです。

平氏にとっては、ボディーブローのようにジワジワとダメージを負う形となりました。

養和の飢饉が起こった

平氏の力が弱まったのは、養和の飢饉が起こったのも大きな原因と考えられています。養和の飢饉とは、1181年に近畿地方で起きた大飢饉のことです。

前年の降水量が少なすぎて、翌年に穀物が育たない現象が大規模で起こってしまいました。鴨長明の「方丈記」では、合計で4万2,300人が亡くなったと記されています。

一方で源頼朝は、年貢を納める代わりに関東地方の支配権を得ます。この機転が、結果的に頼朝の権力を強めた要因にもなりました。

 

源頼朝による政治

平氏を滅ぼした源頼朝は、鎌倉(神奈川県)を本拠地に武家政治を展開しました。各国に守護を置き、荘園には地頭をそれぞれ任命して治安維持と土地の支配に努めます。

また鎌倉時代の特徴は、朝廷を京都に置きつつ源頼朝らが関東で政治を展開したことです。この仕組みが、後々朝廷と幕府で争いが生じたきっかけに繋がります。

鎌倉幕府の成立時期については、1185年説や1192年説を中心にさまざまな議論があります。源頼朝は1199年に死去し、子孫や北条氏が跡を継ぎますが鎌倉時代は1333年に終焉を迎えました。

鎌倉時代の内容は、別の記事で詳しく紹介します。今後の更新をぜひ楽しみにしていてください。

 

治承・寿永の乱のまとめ

治承・寿永の乱については、1180〜1185年の間で細かい戦乱がちらほらと行われています。この記事ではいろいろ書きましたが、受験勉強に関しては細かい内容を覚える必要はありません

ただし、平氏や源氏の人間関係は押さえたほうが内容を理解しやすくなります。治承・寿永の乱の出来事と、関わった人物を時系列順に並べてみました。

勉強する際の参考程度で構いません。じっくりと暗記しなくてもいいので、ぜひチェックしてみてください。

戦乱 勝者 主な死者
石橋山の戦い 平氏
(大庭景親)
佐藤宗時
富士川の戦い 源氏 大庭景親
(後日処刑)
倶利加羅峠の戦い 源氏
(源満仲)
多数の平氏
宇治川の戦い
(源氏同士の戦い)
源義経 源満仲
一ノ谷の戦い 源氏 多数の平氏
屋島の戦い 源氏 佐藤継信(源氏)
多数の平氏
壇ノ浦の戦い 源氏 安徳天皇
平氏は滅亡へ