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応天門の変とは?藤原氏の今後や貴族の関係性について解説

平安時代では、藤原氏の台頭を巡ってさまざまな騒動が起こりました。その中でも、有名な事件として取り上げられるのが応天門の変です。

ここでは、応天門の変とは何かについて詳しく紹介します。藤原氏や貴族の関係性にも取り上げましょう。

 

応天門の変とは

応天門の変とは、大納言の位に就いていた伴善男を応天門に放火した罪で失脚させた事件です。応天門は、平安宮朝堂院の南門を指します。

まずは、応天門の変の背景についてまとめましょう。

伴善男の人物像

伴善男(とものよしお)は19歳のうちから官人となり、仁明天皇に愛されていたといわれています。

そこから彼は異例の昇進を遂げて、自身が53歳の頃には大納言の地位を獲得しました。大納言は太政官の役職であり、四等官の次官(すけ)にあたります。

若い頃から優秀といわれていた一方で、ずる賢い部分もある人物だったそうです。人に頭を下げるような性格ではなかったため、人付き合いは苦手という短所もありました。

事件の概要と源信

応天門の変が起こった背景には、伴善男と源信(みなもとのまこと)の不仲があります。源信は才能や知恵に優れており、気高い人物であったそうです。

しかし伴善男は源信を嫌っていたようで、彼を排除して藤原良相(ふじわらのよしみ)に昇進してもらおうと考えていたともいわれています。自分も右大臣へ昇進するきっかけになると思っていたためです。

そんなあるとき、応天門が放火される事件が起こりました。

伴善男はこの機会を狙い、藤原良相に源信が犯人だと告発します。藤原良相は兵を起こして、源信を逮捕しました。

源信が釈放される

源信の側近らは、無実の罪を着せられたことで酷く悲しみました。後に関白となる藤原基経(もとつね)は、こうした状況を藤原良房(よしふさ)へ伝えます。

藤原良房はたいそう驚いて、源信の弁護側に回りました。その動きが功を奏し、源信の無実が認められて結果的に釈放となります。

藤原良房の人物像については、以下の記事でも解説しています。承和の変の内容も合わせて参考にしてみてください。

伴善男が疑われる

源信が釈放されたあと、今度は伴善男に疑いの目がかけられます。伴善男に恨みを持つ官人が、朝廷に対して密告をしたためです。そこで天皇の命令により捜査が行われました。

逮捕された伴善男は、はじめは無実を訴えます。一方で、密告した官人は彼に娘を奪われた襲撃事件のことを恨んでいました。ただし、まだ伴善男がその事件の犯人であることも証明されていなかったのです。

検非違使(昔の警察)らは、襲撃事件についても別件で捜査を進めます。その過程で伴善男は、襲撃事件も含めて応天門の変の首謀者だった自白しました。

なお、検非違使などの役職については以下の記事でも解説しています。

 

 

応天門の変後の動き

応天門の変の件を伴善男が自白して、一応事件は解決となります。しかし、本当に伴善男が犯人なのかも踏まえて、現代にわたってもさまざまな議論がされています。

ここでは、応天門の変が終わったあとの動きを紹介しましょう。

伴善男は伊豆へ流罪

伴善男は襲撃事件と応天門の変の犯人として、伊豆国(現:東海道)へ流罪となりました。

元々は死罪の予定だったものの、大納言時代の働きぶりを評価されて刑が軽くなったようです。

流されたあとの消息については、特に明らかにはなっていません。現在の推測では、配流先の伊豆国で永眠したと考えられています。

彼が政界に復帰できなかった理由として、藤原良相の急死も影響しているかもしれません。最終的には、藤原良房が朝廷の中でもトップクラスの権力を握りました。

源信は精神に傷を負う

源信は、応天門の変の影響で精神的に大きなダメージを受けたそうです。ショックで家の中に閉じこもってしまい、表舞台には姿を現しませんでした。

応天門の変から3年後、気分転換のために狩猟へ出かけました。しかし、運悪くその日の狩猟で落馬してしまい命を落とします。

藤原氏の台頭が加速

応天門の変が起こった背景として、伴善男が藤原氏の勢いを削ごうとしたという見解もあります。しかし、最終的には藤原良房の権力を強めてしまいました。

結果的に伴善男は位を奪われ、藤原良房は伴氏らを排除します。説によっては、伴善男を積極的に排除したのは清和天皇ともいわれています。

こうして平安時代は、まさしく藤原氏の時代となりました。

 

応天門の変の裏話

最後に、応天門の変の裏話についても解説しましょう。

応天門の変の犯人は伴善男と歴史上はされていますが、実際のところはさまざまな噂があります。

中には、藤原良房の陰謀によって伴善男を廃止したという声も少なくありません。ただし完全に濡れ衣なら、なぜ自白したのかと疑問に思う人もいるでしょう。

その背景には部下らが尋問されていたため、自白して苦しみから解放してあげようとした事情もあったのかもしれません。

また襲撃事件にも関わっていたのであれば、反抗的な態度を取り続けるのは望ましくないと考えたことも想定できます。

この辺りは事実が明らかでない以上、あくまで推測にすぎません。とはいえ、政治は常に人々の見えないところで陰謀が働いているものです。

伴善男が源信に罪を着せたように、藤原良房も応天門の変を上手く利用した可能性はあります。因果応報ではありますが、一見清らかに見える平安時代も意外とドロドロした部分が多いことがうかがえます。