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阿弖流為と坂上田村麻呂の関係性|処刑に至るまでの話

奈良時代末期から平安時代にかけて、阿弖流為(あてるい)が東北地方の族長として名を馳せていました。

即位した桓武天皇は東北地方の支配を目指すべく、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を向かわせます。

阿弖流為と坂上田村麻呂は、関係性が注目されています。阿弖流為が処刑に至るまでの流れと2人の関係性について詳しく紹介しましょう。

◆この記事でわかること◆
・阿弖流為の人物像
・坂上田村麻呂の人物像
・阿弖流為と坂上田村麻呂の関係

 

 

阿弖流為とは


(※画像はイメージです)

阿弖流為は、現在の東北地方である蝦夷(えみし)の族長でした。当時の蝦夷の資料があまり残っていないことから、彼の素性や評価にはさまざまな解釈がなされています。

従来は、中央政府に逆らったために悪者扱いされていたようです。しかし、岩手県の阿弖流為ムーブが2002年に起こり、現代ではヒーローのような見方も増えています。

特に後述する巣伏の戦いでは、阿弖流為の活躍はめざましいものがありました。

現代でも、岩手県の水沢地域を中心に鉄道やコンピューターの分野で彼の名が使われました。

しかし、鉄道の快速「アテルイ」は2023年3月に廃止されています。水沢市の天文台にあるスーパーコンピューターの「アテルイⅡ」も2024年5月に運用が終了するそうです。

今後も、阿弖流為の名前を使った製品が現れてほしいと個人的には思います。

 

坂上田村麻呂とは


(※画像はイメージです)

坂上田村麻呂とは、征夷大将軍として蝦夷の討伐で活躍した人物です。公家の中で最上位にも就いた(公卿)人物であり、現代でも守護神として崇められています。

坂上田村麻呂と阿弖流為は、それぞれ敵として争っていた関係でした。しかし、阿弖流為の死の間際、坂上田村麻呂は彼を故郷に返そうと考えていたようです。

彼らの関係が、どこまで親密だったかは具体的には明らかになっていません。一方で、こうした資料から2人には友情が芽生えていたとする説も誕生しています。

参照:枚方の民話

 

 

阿弖流為と巣伏の戦い


(※画像はイメージです)

阿弖流為の話で特に有名なのが巣伏の戦いです。この戦いは、桓武天皇による第一次蝦夷征討に該当します。主にどのような戦局であったのかを詳しく解説しましょう。

紀古佐美が制圧に向かう

桓武天皇は、東北地方を制圧するために紀古佐美(きのこさみ)を岩手県の胆沢地方に向かわせます。しかし、胆沢地方に着いたはずの紀古佐美は30日間も連絡しませんでした

戦局がわからない桓武天皇は、「まだ戦いを開始しないのか」とひどく怒ります。結局は命令が届いたタイミングで、紀古佐美が動き出す有り様でした。

なお中央から東北地方へ向かった軍は、合計6,000人で構成されていたようです。したがって、蝦夷征討は紀古佐美が有利な状態でスタートしました

朝廷軍が敗北に遭う

戦闘において、紀古佐美側の朝廷軍は相手が川の東側に集まると予想しました。そのため、川を渡って前軍が西側から、中軍・後軍が東側から攻める作戦に出ます。

阿弖流為の家の近くまで進むと、400人程度の蝦夷軍がいたため中軍と後軍が勝負しました。

数に圧された蝦夷軍は、そのまま北の方に逃げていきます。朝廷軍は、火で辺りを焼き払いながら追い詰める作戦を実行しました。

一方で、西側を進んでいた前軍は蝦夷と激突し、なかなか北へ進めませんでした。

前軍が苦戦していると、今度は中軍と後軍の前に800人ほどの蝦夷軍が現れます。怒涛の勢いに飲み込まれ、朝廷軍は逃げ場を失いました。

最終的に朝廷軍は合計で1,061人の死者を出し、甚大な被害を出したうえで壊滅します。

京都に帰り、桓武天皇はリベンジ戦に向けて準備を進めようとしました。一方で、紀古佐美は勝手に軍を解散してしまいます。

その様子に桓武天皇は再び激しく憤り、紀古佐美をリーダーの座から引きずり下ろしたとのことです。

蝦夷の被害も大きかった

ここでチェックすべきポイントは、巣伏の戦いでは蝦夷側の被害も大きかった点です。朝廷軍の壊滅ぶりを見ると、さぞ阿弖流為側は無傷だったと思ってしまうかもしれません。

しかし、朝廷軍は東北の村々を燃やしながら進んだことで、4,000人程度の村人が住居を失ったそうです。

なお、戦火による死者数は現段階では明らかになっていません。とはいえ、蝦夷側も想像を絶するほどの傷を負っていたと想定できます。

 

第二征討以降


(※画像はイメージです)

巣伏の戦いで惨敗を喫した桓武天皇は、790年あたりに第二征討の計画を立てます。その際に副隊長として任命されたのが坂上田村麻呂でした。桓武天皇が平安京に遷都した794年、第二征討が開始されました。

第二征討の記録はない

巣伏の戦いは、事細かく内容が明らかになっているものの、第二征討に関する記載はほとんどありません。そのため、どのような形で蝦夷を服従させたかは謎のままとなっています。

戦が終了した数年経った797年、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命されました。第二征討後も蝦夷との戦闘は行われ、見事勝利を収めています。

このとき阿弖流為はまだ降参しておらず、桓武天皇はさらなる戦略を企てます。

坂上田村麻呂と胆沢城

坂上田村麻呂は、胆沢城の建設を任されて再び東北へ遠征しました。このときは802年頃と推定されています。

胆沢城を建設した目的は、軍の拠点として東北地方を管轄するためです。やがて胆沢城は、軍の行政を担う機関である鎮守府として機能します。

このあたりはさまざまな説がありますが、朝廷と蝦夷で和平が結ばれて阿弖流為が全面降伏しました。この降伏により、長きに渡る東北の征討は幕を閉じます。

戦争の被害を心配する必要がなくなったため、胆沢城の建設も全面的に進められたとする見方もあります。

阿弖流為の処刑

全面降伏に申し出た阿弖流為でしたが、802年に賊のリーダーであることを理由に処刑されました

坂上田村麻呂は、この処刑が行われる前に次のような提案をしています。

阿弖流為を胆沢に帰して、他の一族も朝廷に取り込んではどうだろう?

しかし、この意見に当時の公卿は「彼らは野蛮だから約束を破るに違いない。まるで虎を療養したうえで置いておくものだ」と反対します。

なお、この背景には桓武天皇が国を中心とする政治体制に精を出していたことも要因として考えられているようです。人々を統制すべく、二度と反抗しないようにリーダーを滅したとする見方があります。

結果的に公卿の意見が取り入れられ、阿弖流為の処刑が行われました。

こうしたエピソードから、阿弖流為と坂上田村麻呂には友情関係があったのではと噂されていたわけです。無論、友情関係の有無は実際にはわかりません。

阿弖流為を信じた坂上田村麻呂の行為は、現代も多くの人から支持されています。

 

まとめ

この記事では、阿弖流為と坂上田村麻呂に焦点を当てて蝦夷征討の内容を解説しました。

蝦夷征討は、桓武天皇の政策においても重要なものとして知られています。

巣伏の戦いは教科書から脱線した内容にはなりますが、興味のある方はざっくり押さえておくと背景が理解できます。

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