750年に入ると、天皇と藤原氏の間でさまざまな動きを見せるようになりました。特に権力争いを強めた要因として、道鏡(どうきょう)の存在があります。
ここでは、道鏡の人物像と孝謙天皇の関係性について紹介します。恵美押勝の乱も詳しく説明するため、天平時代の争いをしっかりと押さえましょう。
道鏡とは
(※画像はイメージです)
道鏡は、天平時代に孝謙天皇(こうけん)から寵愛を受けた人物です。「日本三悪人」と、不名誉な称号が付けられている人物でもあります。
しかし、彼は仏教の僧でしかありません。その僧がなぜ孝謙天皇に愛されたのか、出自とともに解説しましょう。
道鏡の出自
道鏡はいつ生まれたかが不明確ですが、一般的には700年とされています。弓削氏が俗姓であり、一説によると物部氏の一族ともいわれています。
彼は若い頃に法相宗(仏教)に入門し、良弁からサンスクリット語(古代インド・アーリア語)を学びました。そこから禅を学び、禅の師匠としても活躍しました。
禅を習得したことで、平城宮の仏殿(内道場)へ入ることを許されます。
道鏡と孝謙天皇の出会い
761年に入り、平城宮の改修に合わせて孝謙天皇は保良宮(近江)に遷都します。しかし、遷都した先で病気に罹ってしまいました。
その看病にあたった人物が道鏡です。彼の行為を孝謙天皇は気に入り、以後政治の世界でも重要なポジションを任されるようになりました。
しかし、道鏡の政界進出はさまざまな人々の反感を買います。結果的に、760年代は争いが続く不穏な時代に変わってしまいます。
孝謙天皇の変遷
(※画像はイメージです)
孝謙天皇は、749〜758年の10年間にわたって在位した天皇です(後に称徳天皇として復活する)。聖武天皇の娘であり、彼から位を貰う形で天皇となりました。孝謙天皇の時代について、詳しく紹介しましょう。
開眼供養の儀式
聖武天皇は孝謙天皇に位を譲り、自身は太上天皇となりました。太上天皇は略称で上皇とも呼ばれており、位を譲った天皇のことを指します。
この頃、約16mにも上る東大寺大仏が完成しました。その完成を祝い、聖武太上天皇と孝謙天皇は開眼供養の儀式に参加します。
開眼供養とは、僧侶に読経をしてもらって大仏に魂を入れることです。現代でも、お墓や位牌を購入した際に行われています。
開眼供養の儀式は非常に大規模で開催され、1万人の僧が参加しました。日本のみならず、インドや中国からも僧がやってきたのが特徴です。
藤原仲麻呂の活躍
孝謙天皇の時代には、藤原氏の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が活躍しました。彼は藤原四子の一人である武智麻呂の子どもです。藤原仲麻呂の台頭により、左大臣の橘諸兄が引退に追い込まれます。
この動きを良く思わなかったのが、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)でした。橘奈良麻呂は橘諸兄の子であり、右大弁に任じられていました。
右大弁は右弁官(兵部省・刑部省・大蔵省・宮内庁)の長であり、大臣よりは下の階級ながらも高い役職のひとつです。
橘奈良麻呂は藤原仲麻呂の独裁政権を嫌い、仲間を率いて反乱を起こします。この反乱が橘奈良麻呂の乱です(757年)。
しかし、後に藤原姓を与えられる山背王(藤原弟貞)が計画について孝謙天皇に密告していました。最終的に橘奈良麻呂は逮捕され、獄死したといわれています(定かではない)。
孝謙天皇は死罪から流罪にしようと考えていたものの、藤原仲麻呂は許さずに乱の協力者を次々と拷問にかけます。この背景からも、勢いは凄まじかったことがうかがえます。
道鏡を寵愛する
藤原仲麻呂は、権力を生かして淳仁天皇(じゅんにん)を擁立(支持して即位させること)します。自らの手で即位させたことにより、彼の独裁ぶりはエスカレートしました。
一方で淳仁天皇の即位により、孝謙天皇は位を渡して太上天皇となります。しかし、依然として強い権力を握ってはいました。このタイミングで、孝謙太上天皇は道鏡と出会います。
淳仁天皇は、孝謙太上天皇と道鏡が親密な関係になるのは快く思っておらず、仲良くするのを止めるように伝えました。しかし、その言葉が反感を買ってしまい、天皇と太上天皇は一気に不仲となります。
こうした小さな出来事が、のちに大きな戦乱を招きました。
恵美押勝の乱
(※画像はイメージです)
恵美押勝とは、藤原仲麻呂が淳仁天皇からいただいた名称です。つまり藤原仲麻呂と恵美押勝は同一人物だと覚えてください。
ここでは、760年代の代表的な戦乱である恵美押勝の乱の背景を紹介します。
光明皇后の死去
恵美押勝の乱の遠因となった背景として、光明皇后の死去が挙げられます。光明皇后は藤原不比等の娘である光明子(こうみょうし)を指し、藤原氏台頭のきっかけを作った人物です。
藤原不比等は天皇との距離を近づけるため、光明子を聖武天皇の妻となるよう計らいます(もう1人の娘である宮子は文武天皇と結婚)。
以後、異母兄弟である藤原四子を支えたこともあり、光明皇后のおかげで藤原氏の勢力はどんどん伸びました。藤原四子の内容については、下記の記事をご覧ください。
しかし、760年に光明皇后は崩御(天皇や皇后が亡くなること)します。
恵美押勝も、光明皇后の存在があって力を持った部分がありました。その存在がいなくなると、少しずつ勢いを失ってしまいます。
孝謙太上天皇と道鏡の圧力
上述のとおり孝謙太上天皇が道鏡を寵愛したことで、天皇家にも少しずつ争いが芽生えていました。孝謙太上天皇は淳仁天皇と対立し、道鏡に対する愛も大きくなります。
その最中、お互いに親密な関係となった2人は淳仁天皇と恵美押勝に対して圧力をかけていました。
光明皇后の崩御で徐々に貴族社会からも孤立していた恵美押勝は、特に危機感を覚えます。そこで2人を退けるべく、反乱を起こしました(恵美押勝の乱)。
たった1週間で失敗
結論から述べると、恵美押勝の乱は約1週間で失敗に終わりました。恵美押勝は孝謙太上天皇と道鏡を排除する計画を企てたものの、とある部下に全て密告されます。やはり1番怖いのは、味方だと思っていた人物の裏切りかもしれません。
9月11日に恵美押勝の最初の襲撃が始まります。しかし、策はことごとく失敗しました。恵美押勝の有力な部下が何人か討たれ、最悪なスタートを切ります。
実は、9月11日時点では恵美押勝の方が多くの軍を従えており、比較的有利な状況でした。しかし出鼻をくじかれたことで、一気に追い込まれてしまいます。
孝謙太上天皇は恵美押勝の官位を剥奪し、一方の恵美押勝は平城京から逃れて宇治(京都)に入ります。最終的に近江(滋賀)へ行き、態勢を整えようと考えたようです。
ここで孝謙太上天皇は、吉備真備を起用します。吉備真備は20代で遣唐使として活躍し、博学で非常に賢い人物でした。彼は恵美押勝の行動を読み切り、軍の壊滅を招きます。
序盤で何人かの有力な部下を失ったこと、吉備真備の活躍により恵美押勝の乱は9月18日に幕を閉じました。実にわずか1週間の出来事でした。
恵美押勝は、最終的に斬首されます。
道鏡と孝謙天皇のその後
(※画像はイメージです)
恵美押勝が死亡し、道鏡と孝謙天皇はさらに勢力を強めます。淳仁天皇も位がなくなり、淡路へ流されました。
戦乱が終わったあとの、2人の変化について説明しましょう。
孝謙太上天皇が称徳天皇へ
孝謙太上天皇は再び権力を握り、称徳天皇(しょうとく)として即位します。愛されていた道鏡は、太政大臣と官職の中でもトップの地位に就きました。
ここで注目すべきポイントは、太政大臣の位にありながら僧侶の活動もしていたことです。虐げられた藤原一族は、当然ながら快く思いません。
さらに称徳天皇(孝謙天皇)は、道鏡を天皇家に迎えて即位させようと考えます。宇佐神宮が「道鏡を皇位に就かせたら天下泰平が訪れる」という神のお告げがあったと伝えたためです。
しかし、神と遣いの役割であった和気清麻呂(わけのきよまろ)が「そのお告げは嘘である」と伝えます。そのため道鏡の即位は白紙となりました。
ちなみに道鏡は、当然ながら和気清麻呂に怒りを感じ、改名させたうえで左遷を命じます。その名前が「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」だった点から、余程の怒りを覚えていたことがわかります。
称徳天皇の崩御
即位できなかったとはいえ、道鏡はお坊さんの立場でありながら輝かしい出世を成し遂げました。しかし、そんな彼にも暗雲が垂れ込めます。
可愛がってくれた称徳天皇が770年に病のために崩御したのです。周囲から反感を買っていたのもあり、後ろ盾を失った道鏡の権力は一気に衰えます。
藤原百川(ふじわらのももかわ)が光仁天皇(こうにん)を後継者として即位させた後、道鏡は今の栃木県にあたる薬師寺へ追放されました。772年、道鏡はその地で死亡したといわれています。
なお、別部穢麻呂と散々な名前を付けられた和気清麻呂は政界に復帰を果たしました。
藤原仲麻呂の乱で活躍を遂げた吉備真備も、天皇の後継者を決める際に藤原百川と対立したとする説もあります。自身の意見を受け入れてもらえなかった吉備真備は、自ら政界から身を引いたそうです。
しかし、藤原百川と吉備真備の不仲説は作り話ではないかという見方もあります。
こうして道鏡と孝謙天皇を巡る、皇家および政界の混乱は収まりました。そこから桓武天皇が登場し、政治基盤や財政を再構築します。
まとめ
この記事では、道鏡と孝謙天皇の関係について詳しく解説しました。教科書には載っていない話も紹介したことで、背景がある程度は明確になったかと思います。
仏教(法相宗)の僧だった道鏡による混乱は、現代の政教分離(政治と宗教を切り離す考え方)にも糧の一つになると考えます。
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