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租庸調はいつから始まったの?日本の税の歴史を見てみよう

私たちは普段の生活で税金を払っていますが、古代日本の人々も税負担に苦しめられていました。当時の税制として、有名なものが租庸調です。

ここでは、税の元祖ともいえる租庸調について解説します。日本で租庸調がいつから始まったのか、日本の歴史を振り返りましょう。

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租庸調とは

租庸調の仕組みについてわかりやすく説明した図

租庸調とは、飛鳥時代から奈良時代にかけてスタートした古代日本の税制です。それぞれの意味は以下のとおりです。

  • 租:稲の3%を納める
  • 庸:労役か布・塩を納める
  • 調:特産物や繊維製品を納める

具体的な制度の仕組みについて見ていきましょう。

租:稲の3%を納める

まずは代表的な税である、「租」について見ていきましょう。租は、米の原料となる「稲」の3%を納めさせる制度です。男女共通で納める義務がありました。

3%という数値が大したことなさそうに見えますが、豊作や凶作にかかわらず割合は変わりませんでした。したがって全く収穫できない時期でも、人々は3%分の稲を国に渡さなければなりません。

当時は班田収授法により、国が国民に対して口分田を支給していました。しかし地域によって天候や水質に差があり、米がほとんど採れないところもあったようです。

こうした税制の負担により、口分田を捨てて本籍地から逃げる人も続出します(浮浪)。なお班田収授法に関しては、以下の記事でも詳しく説明しているため、併せて参考にしてください。

庸=労役か布・塩を納める

庸は労役を提供するか、布や塩を納めるかを選択する税制です。当時の日本では、国のために仕事をすることも税の一種と考えられていました。

庸の対象になっているのは、21歳〜65歳までの男性です。彼らは国の仕事をすべく、都に行って働いていました。労役の期間は、正丁(21歳〜60歳)が10日、次丁(61歳〜65歳)が5日です。

労役を提供できない場合は、代わりに布や塩などを納める方法も認められていました。労役の代わりに納められた布や塩は代納物とも呼ばれており、都の生活を支える資源として重宝されました。

調=繊維製品や特産物

調として納められていたものは、基本的に繊維製品(布など)です。対象となった人は、17歳〜65歳までの男子でした。

また布の代わりとして、地元の特産品を納税することも認められていました。納税者のうち、運脚(都に運ぶ人)が指定されていたのも特徴です。こちらは、庸もまた同様でした。

ちなみに、庸と調は国民1人に課す「人頭税」です。貧富にかかわらず一定額を納めないといけないため、貧しい人は負担が重くなりました。




人頭税は今もあるの?




今は導入している国がほとんどないと考えられているよ!

 

租庸調はいつから始まった

租庸調の仕組みを詳しく知るには、当時の社会背景を押さえる必要があります。日本だけではなく、中国の税制についても見ていきましょう。

租庸調を最初に始めたのは中国

まず租庸調の仕組みを最初に始めた国は、中国です。高校日本史では隋および唐(581〜618、618〜907年)の律令時代に確立したと習いますが、北周(556〜581年)の頃にはすでに着手していたとも考えられています。

なお隋や唐の時代では、租庸調は以下のようにルールが定められていました。

  • 租:粟2石(約60L)
  • 庸:年20日の労役または絹や布の代納
  • 調:絹、綿、麻、麻布など

ほかにも雑徭として、地方官庁において年40日以内労役することも税の一つでした。特に丁男(21歳〜59歳の男子)が、より大きな負担を抱えていたとされています。

日本が租庸調を始めた経緯

租庸調を始めた理由は、国の財源を確保するためです。当時の日本は、白村江の戦いに敗れて唐(当時の中国)から侵略される危険性がありました。

危機感を募らせた天智天皇(大兄皇子)は、中央集権化に向けてさまざまな改革を行います。壬申の乱(跡継ぎ問題)を経て、天武天皇(大海人皇子)が即位すると、改革への動きはさらに加速しました。

最終的に持統太上天皇と藤原不比等が「大宝律令」を完成させました。律令制度の一環として、租庸調がスタートします。つまり、租庸調は国を強化する取り組みのひとつでした。

 

租庸調以外の税

租庸調が特に有名ですが、律令時代は他にも多種多様な税を設けていました。高校生の日本史では、これらの内容もしっかりと押さえなければなりません。租庸調以外の税についても簡単にまとめましょう。

雑徭=都の労役を課す

雑徭(ぞうよう)とは、国司のもとで都の労働を手伝う税のことです。仕事の種類は、土木作業や建物の修理などがありました。行政職の事務作業を担当していた方もいます。

21〜60歳の男子(正丁)の場合は、年間60日間仕事するのが基本でした。他は以下のとおりです。

  • 61〜65歳の男子(次丁)…30日
  • 17〜20歳の男児(中男)…15日

かなりの重労働であったことが推測され、逃亡した人も続出したそうです。さらに労働者には食糧すらも与えられなかったといわれています。

公出挙…借金制度の元祖

公出挙は、借金に近い制度です。現代社会でも金融機関からお金を借りたら、元本のみならず利息も返さなければなりません。

利息とは、お金を借りる場合に支払う対価であり、借金の元本に一定の割合で加えられます。この利息の概念は、古代日本からすでに存在していました。

公出挙の特徴は、国が国民に対して稲を強制的に貸し付けていた点です。春と夏に2回貸した稲を秋に回収し、そこで利息分も徴収していました。さらに利率が50%もあったため、返済にかかる人々の負担も大きい制度でした。

義倉と贄(にえ)

義倉とは、備蓄のために粟を徴収する制度です。位の高い人以外は、基本的に粟の徴収を課せられていました。

一方で贄とは、魚介類や海藻類を納める税制です。当時の律令には定められていなかったものの、発掘された木簡から存在していたことが証明されています。

なお木簡は文字の書かれた木の札を指し、歴史を知る上で重要な資料です。日本史にもよく出てくる用語であるため、併せて覚えておくようにしましょう。

 

租庸調の勉強におすすめな本

租庸調を深く勉強したいものの、教科書にはあまり詳しく書かれていません。そこで一緒に持っておきたい本の一つが、以下の参考書です。

 

こちらの本には、当時の税制の仕組みがわかりやすく書かれています。表で詳しくまとめているため、税をすべて網羅したい方におすすめです。

またコスパを重視したいのであれば、以下の資料集も個人的には推奨します。

 

どちらか一つだけ持っていれば、日本史の対策は十分できます。教科書や受験用のテキストもよいですが、深く勉強したい場合はこれらも併せて使用してみてください。

 

租庸調に関するまとめ

租庸調について、最初にスタートした国は中国です。日本は唐と交流を深めていく中で、中央集権国家を作るために租庸調を取り入れました

中学校の歴史では租・庸・調の3つを中心に習うものの、実際には数多くの税があります。高校日本史を勉強するのであれば、ほかの税もしっかりと覚えるようにしましょう。