我々は、普段の生活でさまざまな税金を支払っています。
お金を稼いだら所得税と住民税、商品を買ったら消費税、財産を貰ったら贈与税。
「なぜこのような制度があるのか」と不満に感じる方も少なからずいるでしょう。
しかし、昔の人々も同じように税の負担が大きくて苦しい思いをしていました。
ここでは、税の元祖ともいえる租庸調について解説します。
日本で租庸調がいつから始まったのか、日本の歴史を振り返りましょう。
なお、こちらの内容はYouTubeでも紹介しています。
上記の動画も参考にしつつ、日本の税の歴史について捉えてください。
租庸調はいつから始まった
はじめに租庸調がいつから始まったのかを解説します。
租庸調が開始されたのは、飛鳥〜奈良時代にかけての頃です。
当時は中央集権国家を作るべく、大宝律令を定めたばかりでした。
大宝律令の記事については、こちらを読んでみてください。
ここで、租庸調の具体的な内容も触れていきましょう。
租庸調の仕組み
次に、租庸調の仕組みを解説します。制度の内容を知るには、採用した目的も理解しなければなりません。
飛鳥〜奈良時代の頃に、なぜ租庸調が始まったのかも解説しましょう。
租庸調を始めた理由
租庸調を始めた理由は、国の財源を確保するためです。
当時の日本は、白村江の戦いに敗れて唐(当時の中国)から侵略される危険性がありました。
危機感を募らせた天智天皇(大兄皇子)は、中央集権化に向けてさまざまな改革を行います。
壬申の乱(跡継ぎ問題)を経て、天武天皇(大海人皇子)が即位すると、改革への動きはさらに加速しました。
最終的に持統太上天皇と藤原不比等が「大宝律令」を完成させました。
律令制度の一環として、租庸調がスタートします。つまり、租庸調は国を強化する取り組みのひとつでした。
租庸調で納めたもの
租庸調制度がスタートし、納税が義務となる生活に変わりました。
ここでは、それぞれ何を納めたのかについて掘り下げましょう。
租=稲の3%を納める
まず、最も代表的な税である租です。こちらは、米の原材料になる「稲」が対象でした。
人々は、田んぼで採れた稲の3%を納めるのが義務とされます。
3%と聞くと、あまり大した量ではないと思うかもしれません。しかし、大変なのは全く収穫できないときです。
たとえ稲が全然採れなくとも、3%は国に渡さなければなりません。
また、当時は班田収授法により国が田んぼ(口分田)を国民へ支給していました。
地域によっては、天候や水質の差で米がほとんど採れないようなところもありました。
月日が流れると、口分田を捨てて本籍地から逃げる人が続出します(浮浪という)。
国は財源の確保を固めるため、班田収授法の他にさまざまな改革を行いました。
庸=布や塩などを納める
当時は、国の仕事をすることが税の一種と考えられていました。
21歳〜65歳までの男性が対象で、都に行って働くのが主流でした。
なお、労役の期間は正丁(21〜60歳)が10日、次丁(61〜65歳)が5日です。
一方で、労役の代わりに布や塩などの納税も認められていました。これらの代納物が庸です。
調=繊維製品や特産物
調として納められていたものは基本的に繊維製品(布など)でした。対象となった人は、17〜65歳までの男子です。
また布の代わりとして、地元の特産品を納税することも認められていました。
納税者のうち、運脚(都に運ぶ人)が指定されていたのも特徴です。こちらは、庸もまた同様でした。
ちなみに、庸と調は国民1人に課す「人頭税」です。貧富にかかわらず一定額を納めないといけないため、貧しい人は負担が重くなりました。
人頭税は今もあるの?
今は導入している国がほとんどないと考えられているよ!
その他の税について
租庸調が特に有名ですが、律令時代は他にも多種多様な税を設けていました。
高校生の日本史では、これらの内容もしっかりと押さえなければなりません。租庸調以外の税についても簡単にまとめましょう。
雑徭=都の労役を課す
雑徭(ぞうよう)とは、国司のもとで都の労働を手伝う税のことです。
仕事の種類は、土木作業や建物の修理などがありました。行政職の事務作業を担当していた方もいます。
21〜60歳の男子(正丁)の場合は、年間60日間仕事するのが基本でした。他は以下のとおりです。
- 61〜65歳の男子(次丁)…30日
- 17〜20歳の男児(中男)…15日
かなりの重労働であったことが推測され、逃亡した人も続出したそうです。
さらに労働者には食糧すらも与えられなかったといわれています。ブラックどころではありませんね。
公出挙…借金制度の元祖
公出挙は、借金に近い制度です。仮に金融機関からお金を借りた場合、元本のみならず利息も返さなければなりません。
この利息の仕組みは、律令時代からすでに生まれていました。
国は国民に対して稲を強制的に貸し付けます。春と夏に2回貸した稲を秋に返納させる制度が公出挙です。
利率は何と50%もありました。返すのは非常に困難だったと思います。
借金はあくまで必要な方が任意で契約しますが、公出挙の場合は強制だった点が特徴です。
公出挙のほかに、任意で稲を借りる私出挙という制度もありました。
義倉と贄(にえ)
最後に義倉と贄(にえ)を紹介します。高校で習う分には、そこまで複雑な知識を押さえる必要はありません。
義倉は備蓄のために粟(あわ)を徴収する制度でした。位の高い人以外は漏れなく対象だったようです。
贄は魚介類や海藻類を納めるタイプの税でした。律令には定められていなかったものの、発掘された木簡から存在が示されていました。
木簡は文字の書かれた木の札を指し、歴史を知る上で重要な資料となります。一緒に覚えておきましょう。
まとめ
今回は租庸調が始まったのはいつかについて触れ、具体的な制度について見ていきました。
中学歴史までは租庸調を主に習うものの、実際にはさまざまな税があります。
税制度が始まったきっかけは、中央集権国家を目指したことです。
試験に出された際に、租庸調がいつ始まったかを思い出せるようにしてください。
その他、日本史に関わる重要な語句も紹介しているため、何度も記事を読んで押さえてしまいましょう。