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長屋王の変はなぜ起きたの?藤原四子の恐ろしい策略とは

律令時代や奈良時代を経て、少しずつ権力を持ち始めた一族がいました。

その一族こそが「藤原氏」です。小学校や中学校の歴史でも登場するため、名称を覚えている方もいるでしょう。

この記事では、藤原氏が台頭したきっかけともいえる長屋王の変について紹介します。

長屋王の変がなぜ起きたのかを、藤原四子の存在も踏まえて押さえてください。

 

長屋王の変はなぜ起きた

長屋王は高市皇子の子であり、非常に広い邸宅で暮らしていたことが有名です。

しかし、長屋王の変によって追い込まれ、最終的には自害しました。

この事件が起こった理由について詳しく解説しましょう。

藤原氏の政界への進出

奈良時代の頃から、少しずつ藤原氏が政治の世界で影響を与えていました。

有名な大宝律令の作成には、藤原不比等(藤原鎌足の子)が関わっています。

そもそも藤原氏が登場したのは、中臣鎌足が「藤原」の氏を名乗って以降です。

藤原不比等が自分の娘(宮子と光明子)をそれぞれ文武天皇、聖武天皇と結婚させました。こうして天皇との距離を近づけます。

藤原四子と長屋王の対立

藤原不比等には、娘の他にも4人の子麻呂、武智麻呂、宇合、房前がいました。彼らもまた政界に進出します。

しかし、藤原不比等が720年に亡くなったあと、天武天皇に血を引く長屋王が政治のリーダーとなります。

このとき長屋王を補佐した人物が、四子の1人である藤原房前だったそうです。

元明天皇(平城京に遷都したときの天皇)の死、数々の事件の影響で政治が乱れ、藤原四子の長屋王への不満が高まります。

聖武天皇が即位した頃(724年〜)には、両者はひどく対立していたそうです。

藤原氏の後継ぎ問題へ

長屋王は吉備内親王と婚姻を果たし、子どもも授かりました。ここで藤原四子は後継ぎにおいて不安を抱きます。

腹違いとはいえ、自身の兄妹である光明子は聖武天皇の夫人でした。そのため、聖武天皇の後継ぎになるとして四子は期待します。

しかし、後述の理由で雲行きが怪しくなりました。強い権力を持っている長屋王の存在も邪魔だと考えます。

長屋王が目障りに感じた藤原四子は、何とか失脚させようと考えました。

 

 

長屋王の変の内容

長屋王の変は「続日本紀」と「日本霊異記」で主に語られています。

前者は菅原真道が編纂した正史、後者が景戒が著したフィクションを交えた物語です。

ここでは、続日本紀をベースに内容を分かりやすく書きましょう。

一部、言い換えで史実とは違った解釈があるかもしれませんが、ご容赦ください。

起きた発端は官人の密告

長屋王の変が起きたのは、729年2月です。

当時、官人を務めていた中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまびと)らが天皇に密告を行いました。

内容は長屋王が妖術を学び、国家を傾けようとしているというものでした。

朝廷は素早く対処し、藤原宇合らに長屋王の自宅を包囲させます。

長屋王が自害した

藤原宇合らが自宅を包囲した次の日、朝廷は舎人親王(とねりしんのう)や新田部親王(にいたべしんのう)を向かわせたそうです。

ちなみに、両者とも天武天皇の皇子にあたります。長屋王からすれば、叔父の存在です。

2人は長屋王に罪を問い詰めます。ただし、詳しいやり取りについては記載されていません。

舎人親王や新田部親王の糾問があった次の日、長屋王は自害しました。妻の吉備内親王も、子とともに自ら命を絶ちます。

藤原四子に仕組まれた罠

長屋王の変が起きた背景には、藤原四子の思惑があると考えられています。

具体的にどのような問題が生じていたのかを解説しましょう。

なお、ここで取り上げるのは1つの説であることを押さえてください。

藤原四子の策略

藤原四子は、光明子を聖武天皇の皇后にしようと考えていました。

当時は一夫多妻制であったため、聖武天皇には何人かの妻(当時は「夫人」と呼ぶ)がいます。

その中でも、皇后になれば強大な権力を握れるようになります。

ただし、光明子を皇后にする作戦で障壁となったのが県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)の存在です。

県犬養広刀自も光明子と同じく、聖武天皇の夫人でした。

県犬養広刀自と安積親王

聖武天皇と光明子の間には後の孝謙天皇の他に、基親王が誕生しました。

しかし、基親王は早くに亡くなり、男児がゼロ人となります(孝謙天皇は女性)。

他方、聖武天皇と県犬養広刀自の間には安積親王(男児)が誕生しました。

唯一の男児だった点から「聖武天皇の後継ぎは安積親王になるのでは」と注目が集まります。

仮に予測が実現すれば、県犬養氏が最も天皇に近い外積となります。藤原氏の権力が衰える危機に直面していました。

この状況の中で光明子を皇后に立てようとしても、権力者の長屋王に反対される恐れがあります。

そこで長屋王を死に追いやり、策略を実行しやすい状況にしたのではと分析されています。

とはいえ、他にもさまざまな仮説があるようです。あくまで説のひとつとして捉えてください。

 

まとめ

今回は、長屋王の変がなぜ起きたのかを解説しました。

最も代表的な考察は、藤原四子による策略です。

一夫多妻制ならではの問題、複雑な家系図が原因になったともいえるでしょう。

当時は天皇との繋がりが重要で、出世には欠かせない要素だったことが分かります。

やや深堀りした内容でしたが、単純に暗記するよりは根強く記憶として残り続けると思います。