どーも、やまとのです!
今回は大学受験を控えている生徒に向けた記事を書いていきます!
僕は
・中学社会
・高校地歴公民
の教員免許を持っており、
特に日本史はめちゃくちゃ得意でした。
日本史が大きく変わるきっかけの1つとも言える大宝律令についてわかりやすく解説していきます。
※令和3年11月4日追記
律令国家の過程をYouTubeで説明しました!
こちらも参考にしてみてください。
1.大宝律令とは?
大宝律令をわかりやすく言えば、
『昔の日本の法律』です。
701年に日本は当時の中国である唐を見習って、
全部で17巻(律が11巻の令が6巻)もある法典を完成させました。
681年に天武天皇という人物が
「日本の将来のために律令を作ろうぜ!」と命令を下します。
そこから約20年という年月を経て大宝律令の制定に成功したのです。
しかし、なぜ日本はこのような律令を作ったのでしょうか?
これには、日本が経験したある負け戦に原因がありました。
2.きっかけとなる白村江の戦い
・白村江の戦いの概要
当時の東アジアでは、領土拡大を狙う唐が朝鮮半島の支配を目指していました。
朝鮮半島は北から
・高句麗
・新羅
・百済
・伽耶諸国
と分かれていましたが、新羅は既に唐の支配下に入ります。
当時の日本は特に百済と仲が良く、
多くの文化や道具を教えてもらっていました。
その百済のピンチに駆けつけるべく、
日本は協力して唐の退治に尽力します。
ですが、日本はこれまで国を挙げた戦をしたことがなく、戦法を全くといっていいほど知りませんでした。
結果的には多くの犠牲を出して一瞬で敗北。
白村江の戦いは大黒星で幕を閉じました。
・日本全体の強化
敗戦後、日本は唐と何とか友好関係を結んで仲直りをします。
ただ、朝鮮半島は新羅が統一するようになって百済や高句麗は滅亡に追いやられました。
日本もこのままでは攻め込まれたら終わりだという危機感を持ち、国の強化に努めます。
そこで、日本は国内で天皇争奪戦ともいえる壬申の乱が起こったのもあり、リーダーとその拠点を構える中央集権国家を目指しました。
・中央集権国家への道のり
中央集権を簡単に言えば、
政治の中枢をしっかりと置く運営体制です。
対義語は地方分権で、
各地域に政治の拠点を構えて国を動かします。
現在の日本は中央政府を形成している一方で、地方自治として地方議会等も置いているため、
中央集権と地方分権の両方を兼ね備えた政治体制といえるでしょう。
壬申の乱に勝って天皇となった天武天皇は、中央集権を作るために
唐の調査を入念に行いました。
実際に唐へ赴いて調査をした人たちが
遣唐使ですね。
遣唐使の中には日本へ帰らずに唐で一生を過ごした方もいました。
多くのヒントを得た天武天皇は、
・全国的な戸籍で国民を把握
・刑罰を用いたルールづくり
・土地の細かい管理
などと日本の改革を進めていきます。
その改革で生まれたものの1つが
大宝律令なのです。
3.大宝律令の中身
大宝律令は
・律
・令
に分かれた法典です。
律と令はそれぞれ
・律=刑法
・令=民法
を指します。
忘れる場合は、
「律する=統制する」という意味になることから「刑を用いて統制するのが律」と押さえておけばいいでしょう。
律は5つの刑罰を用意していました。
・笞(ち)
・杖(じょう)
・徒(ず)
・流(る)
・死
ですね。
笞と杖は竹のムチで背中を叩く刑罰を指します。
叩かれる回数で笞と杖が分かれており、
・笞は10回から50回
・杖は60回から100回
です。
徒は今で言う「懲役刑」ですね。
流は島流しといって、
遠方の地へ強制的に送られて不便な生活を強いられます。
強制的な引っ越しを島流しというのであって、舟も無しにどんぶらこどんぶらこと本人の体を川や海に流すわけではないので注意してくださいね。
そして、最後の『死』は何となく察しがつくと思いますが、死罪を指しています。
今でこそ死刑は絞首刑一択ですが、
大宝律令時代は絞首刑と斬首刑がありました。
・首を絞めるか
・首を斬るか
といった死刑制度でしたが、斬首刑の方がより重い罪として考えられていたそうです。
その他、大宝律令の制定によって税も国民が負担するようになり、現代の税金システムの基礎が完成します。
そういう意味でも、大宝律令は日本の歴史においても重要な存在になるんですね。
4.大宝律令のまとめ
今回は大宝律令の説明ということで、なるべくわかりやすく書けるよう努めてみました!
いかがだったでしょうか?
とりあえず大宝律令の特徴を下記に記しておくのでおさらいしてください!
【大宝律令のまとめ】
・大宝律令は昔の法典
・律が刑法、令が民法
・刑罰は大きく5つ
・中央集権国家に結びつく
このように受験にかかる知識もどんどん提供していきます!