日本には、六法を中心にさまざまな法律があります。
法律の基盤となった存在が飛鳥〜奈良時代に作られた「大宝律令」です。
この制度が始まったことにより、日本人の生活は大きく変わりました。
ここでは、大宝律令の内容を簡単に理解できるよう解説します。日本史を勉強されている方は、しっかりと押さえてください。
大宝律令を簡単に説明
大宝律令を簡単に説明すると、飛鳥〜奈良時代の法律です。
701年に日本は唐(当時の中国)を見習い、全部で17巻の法典(「律が11巻」、「令が6巻」)を完成させました。
作成に関わったのは、刑部親王と藤原不比等です。
きっかけは、681年に天武天皇が日本の将来のために中央集権国家を目指したためです。
中央集権国家とは、国に政治の基盤を1つ設けて統治する仕組みを指します。
大宝律令ができたことで、刑法や民法といった現代の法律の基礎が作られました。
大宝律令の細かい内容
大宝律令は「律」と「令」に分かれた法典です。
律と令の意味は次のとおりです。
- 律=刑法
- 令=民法
忘れる場合は、
「律する=統制する」の意味になることから「刑法が『律』」と押さえましょう。
律=刑法の内容
律を学ぶ上で、特に押さえてほしいポイントが八虐と五刑です。
それぞれの内容を具体的に解説しましょう。
八虐=天皇や国家に対する罪
律では、罪を八虐と定めています。主な内容は以下のとおりです。
- 謀反(むへん)
- 謀大逆(むたいぎゃく)
- 謀叛(むほん)
- 悪逆(あくぎゃく)
- 不道(ふどう)
- 大不敬(だいふけい)
- 不孝(ふこう)
- 不義(ふぎ)
それぞれの内容を全て覚える必要はありませんが、いずれも国家や天皇、尊属に対する罪です。
犯した場合は、たとえ位の高い人でも恩赦(刑罰が軽くなる制度)が適用されませんでした。
五刑=笞、杖、徒、流、死
律は五刑(5つの刑罰)を用意していました。
- 笞(ち)
- 杖(じょう)
- 徒(ず)
- 流(る)
- 死
笞と杖は竹のムチで背中を叩く刑罰を指します。
叩かれる回数で笞と杖が分かれています。
- 笞は10回から50回
- 杖は60回から100回
徒は今で言う「懲役刑」です。
流は「島流し」であり、遠方の地へ強制的に送られて不便な生活を強いられます。
そして、最後の死は「死刑」のことです。
現代の死刑は絞首刑一択であるものの、大宝律令では以下の2つを定めていました。
- 首を絞める(絞首刑)
- 首を斬る(斬首刑)
死刑の中でも、斬首刑の方がより重い罪として考えられていたそうです。
今の法律と比べると厳しすぎるね…。
これでも「唐」の律令と比べたら罰は緩かったみたいだよ!
令=民法や行政法の内容
令は、主に民法と行政法を指しています。令がまとめられたことにより、国家の基礎ができあがりました。
戸籍や計帳が完成した
大宝律令が生んだ重要な制度として戸籍と計帳の登録が挙げられます。
戸籍は、人民の情報を細かく整理した制度です。現代の日本でも使われており、身分や氏姓を知る上で欠かせません。
律令時代では、人々に税金を課すための口分田を与える目的で作成しました。
計帳は、納税状況をまとめた台帳を指します。取り逃しのないよう、毎年戸主(戸籍上の代表者)に作成させました。
租税を人民に負担させた
大宝律令では、税制を国民に負担させた点も押さえるべきポイントです。
先程も説明したように、国は戸籍や計帳により人々へ口分田を与えました(班田収授法)。
口分田は身分によって大きさが異なり、6歳以上が支給の対象でした。
与えられた田地で米の収穫が許される一方、稲や特産物を国に納めるのが義務となります。
この仕組みが税制の礎です。主な種類として次のような税がありました。
- 租
- 庸
- 調
- 贄
- 公出挙(くすいこ)など
税の具体的な内容については、別の記事でまとめたいと思います。
中央と地方に分けた
大宝律令で重要なポイントとして、行政組織の整備も挙げられます。
律令時代の日本では、大きく中央と地方の2つに分けました。中央には二官八省と呼ばれる役職を置きます。
二官はそれぞれ次のとおりです。
- 神祇官…祭祀を司る
- 太政官…行政事務を司る
八省は次の職務が該当します。
- 中務省…証書の作成
- 式部省…文官の人事
- 治部省…仏事や外交
- 民部省…財政を担当
- 兵部省…軍事を担当
- 刑部省…裁判や刑罰
- 大蔵省…貨幣の収納
- 宮内省…宮中の事務
さらに、地方の行政にも着手します。区画を国(こく)・郡(ぐん)・里(り)に分け、それぞれ国司・郡司・里長が管理しました。
重要な地には、特別な役職を置きます。
- 左・右京職…都の行政職
- 摂津職…外交で必要な摂津(大阪)を管轄
- 太宰府…外交、国防で最重要な九州の管轄
九州地方は異国が最も侵入しやすい土地であったため、防人(さきもり)が警備にあたりました。
大宝律令により法律が整備されるなか、行政組織も繋がりが強くなったと押さえてください。
九州はやっぱり攻められやすかったの?
朝鮮半島と九州は目と鼻の先にあるんだ。
朝鮮半島を支配した唐にいつ攻め込まれてもおかしくなかったんだよ。
大宝律令ができる流れ
当時の唐は、朝鮮半島の征服を臨みます。
朝鮮半島は次のように並んでいました。
- 高句麗
- 新羅
- 百済
- 伽耶諸国
新羅は既に唐の支配下に入ります。
当時の日本は特に百済と仲が良く、多くの文化や道具を教えてもらっていました。
百済のピンチに駆けつけるべく、日本は協力して唐の退治に尽力します。
しかし、日本はこれまで国を挙げた戦をしたことがなく、戦法を全くといっていいほど知りませんでした。
結果的に多くの犠牲を出し、間もなく敗北します。
この一連の戦が白村江の戦いです。
日本全体の強化
敗戦後、日本は唐と何とか友好関係を結んで仲直りをします。
ただ、朝鮮半島は新羅が統一するようになって百済や高句麗は滅亡に追いやられました。
日本もこのままでは攻め込まれたら終わりだという危機感を持ち、国の強化に努めます。
さらに壬申の乱が起こり、中央となる拠点を置いて統括する中央集権国家を目指しました。
壬申の乱の詳しい解説も別にまとめたいと思います。
中央集権国家への道のり
中央集権をとは、政治の中枢をしっかりと置く運営体制です。
対義語は地方分権で、各地域に政治の拠点を構えて国を動かします。
現在の日本は中央政府を形成する一方で、地方自治も重視しています。
壬申の乱に勝って天皇となった天武天皇は、中央集権を作るために唐の調査を入念に行いました。
実際に唐へ赴いて調査をした人たちが「遣唐使」です。
遣唐使の中には日本へ帰らずに唐で一生を過ごした方もいました。
多くのヒントを得た天武天皇は、以下の施策を推し進めます。
- 全国的な戸籍で国民を把握
- 刑罰を用いたルールづくり
- 土地の細かい管理
こうして大宝律令が完成しました。
大宝律令のまとめ
今回は大宝律令の内容を簡単に説明しました。
大宝律令は、飛鳥〜奈良時代にかけて作られた刑法や行政法、民法の法体系を指します。
律は五刑や八虐、令は税や行政体系にあたると押さえましょう。
大宝律令ができた背景として、白村江の戦いがある点も覚えてください。