安土桃山時代を築き上げた将軍の一人として、豊臣秀吉が挙げられます。日本史を勉強していても、天下統一までの道のりを詳しく知らない方もいるでしょう。
この記事では、豊臣秀吉が天下統一をどう達成したかをわかりやすく解説します。高校日本史を勉強されている方は、記事の内容をしっかりと押さえてください。
豊臣秀吉とは
豊臣秀吉とは、安土桃山時代に天下統一を果たした武将であり、三英傑の一人として有名です。尾張(現在の愛知)で織田信長に仕えていた頃は、氏を羽柴としていました。
しかし織田信長が本能寺の変で自害すると、秀吉はすぐさま明智光秀を討ちます(山崎の戦い)。そこで関白に就任し、氏を「豊臣」に改めました。
以降は数々の戦いに勝利し、最終的に天下統一を達成します。天下統一を果たしたあとは、下剋上を防ぐために百姓から武器を取り上げました。

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本能寺の変以降の流れ

織田信長は中国に攻め入る途中、京都の本能寺に滞在していました。しかし部下であった明智光秀が、どういうわけか本能寺に攻め入ります。
寝込みを襲われた信長は、もう逃げ切れないと観念して自害します。そのため明智光秀は自分の手で首を取れず、本当に信長を倒したのかと疑われていました。本能寺の変の最中、豊臣秀吉はどのように行動していたのかをまとめましょう。
本能寺の変が起きた頃の秀吉
本能寺の変が起こった頃、秀吉は中国地方の備中高松城を攻めていました。当時は織田信長と毛利氏が争っており、備中高松城には毛利輝元の部下が守っていたためです。
秀吉は城の攻略に「水攻め」を用いて、有利な形で戦を進めます。そこで相手側は援軍を呼び、その軍に毛利輝元もいました。
秀吉と毛利輝元の直接対決に備え、織田信長は自分も中国地方に攻め入ろうと準備を進めます。しかし明智光秀が本能寺の変を起こし、信長自身は中国地方へ行けずに命を落としました。
豊臣秀吉と中国大返し
毛利輝元と睨み合っていた秀吉ですが、本能寺の変により信長が亡くなったことを知らされます。もちろん毛利氏には悟られないように、信長の死を隠したまま両者は講和を結びました。
そこから秀吉は、明智光秀を討伐するために即行で引き返します。すでに中国地方まで進んでいましたが、8日程度で全軍を山崎(京都と大阪の境目)に到着させました。
山陽道を通ったと言われていますが、実際にはどのように戻ったかは明らかになっていません。姫路城に到着した秀吉軍は、すぐに明智光秀を倒す準備に取り掛かりました。
山崎の戦いで明智光秀を倒す
秀吉の京都へ戻って来る速さは、明智光秀の想像を絶するくらいでした。戦の準備がほとんど整わないまま、山崎の戦いが始まります(1583年)。
はじめは秀吉側も大きな損失を負いましたが、形成はどんどん傾いていきます。最終的に明智光秀は首を打たれ、結果的に織田信長のかたきを討つことに成功しました。秀吉軍も中国地方からの帰還に疲弊していたものの、迅速な行動が功を奏したといえます。
豊臣秀吉の天下統一への道
山崎の戦いに勝利してからも、豊臣秀吉の快進撃は続きます。主に習う戦として、以下の3つを押さえましょう。
- 賤ヶ岳の戦い(1574年)
- 小牧・長久手の戦い(1584年)
- 小田原攻め(1590年)
これらの戦は、きちんと起こった順番も覚えないといけません。順番を押さえられるように、背景をわかりやすく解説します。
賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳の戦いが発生したのは、山崎の戦いからわずか1年後です。こちらの戦では、羽柴秀吉と柴田勝家が中心となった争いました。
柴田勝家は織田信長の部下であり、度重なる戦でも大活躍を見せていた武将です。しかし織田信長の死後に開かれた清須会議で、誰を後継者にするかで秀吉と揉めてしまいます。
そのため柴田勝家側が攻め込む形で、賤ヶ岳の戦いが始まりました。彼は毛利氏の下にいた足利義昭と連絡を取り、毛利輝元に協力してもらうと画策します。
しかし毛利輝元側は、柴田勝家の協力要請に応じませんでした。仕方なく秀吉軍に攻め入るものの敗れてしまい、妻のお市と一緒に自ら命を絶ちました。
小牧・長久手の戦い
賤ヶ岳の戦いに勝利した秀吉は、自らが希望した織田信孝(信長の三男)を跡継ぎにします。一方で柴田勝家に推された織田信雄(信長の次男)は、安土城を追い出されました。
当然ながら、織田信雄は羽柴秀吉をひどく恨みます。そこで徳川家康に協力してもらい、秀吉の側近を次々と殺害しました。
秀吉は織田信雄・徳川家康の行為に怒りを覚え、両者は小牧・長久手の戦いで争います。戦いのはじめは、徳川家康の有能さに秀吉も翻弄されていました。
味方を次々と失い、一歩間違えたら秀吉自身も命を奪われるくらいまで追い詰められます。しかし何とか立て直し、秀吉側が優勢な形で和睦しました。
秀吉は徳川家康の討伐を計画していましたが、最終的に部下として引き入れます。織田信雄も両者の和睦に関与しており、家康の助けもあって許してもらえました。
小田原攻め
小牧・長久手の戦い後の1585年、秀吉は将軍初の「関白」の位を手に入れます。さらに長宗我部元親を降伏させ、1586年に氏を「豊臣」に改めました。
九州の島津氏も攻略した豊臣秀吉は、相模を拠点にしていた北条氏を征圧しようとします。1590年に小田原攻めを仕掛け、北条氏政と対決しました。
小田原攻めでは、徳川家康や織田信雄、長宗我部元親といった名だたる武将が攻め込みます。さらに秀吉は関白(天皇の補佐)だったため、天皇家の権威も持って戦いに挑みました。
そのため北条軍は、兵力的にもほとんど相手になりませんでした。結果的に数カ月程度で小田原城が落とされ、北条氏政は切腹を命じられてしまいます。
この戦いのあとに豊臣秀吉は伊達政宗を降伏させ、見事に天下統一を成し遂げました。また小田原攻めでは、豊臣秀吉が徳川家康を誘って一緒に小便した話も有名です(関東の連れ小便)。
豊臣秀吉の百姓対策

豊臣秀吉は天下統一を目指す中で、下剋上対策に抜かりがありませんでした。さまざまな対策を講じ、百姓の反乱を防ごうとします。
豊臣秀吉の打ち出した政策として、太閤検地と刀狩令が有名です。最後にこれらの政策について、詳しく見ていきましょう。
太閤検地の実施
太閤検地とは、豊臣秀吉により実施された検地のことです。竿入検地によって土地を測定し、年貢を納めさせるための基盤づくりに務めました。
従来の検地では、税の基準を「通貨単位」で決める貫高制が主流でした。しかし貨幣の衰退もあったため、豊臣秀吉は基準を「米の量」に改めます(天正の石直し)。
さらに全国で基準を統一すべく、測量には京枡が用いられます。この制度を石高制と呼び、石高は「石盛(1段あたりの生産力)×面積」で計算されました。そこからさらに一定の税率をかけた分が、年貢として徴収されます。
なお貫高制から石高制に移った経緯は、以下の記事でも詳しく解説しています。こちらも併せて参考にしてください。
貫高制と石高制の違い|制度が変わった理由をわかりやすく解説 - ヤマトノ社会科塾
村請制で年貢を徴収
個人で集計した年貢は、村請制として村単位で徴収しました。これまでは土地に何人もの所有者がいましたが、豊臣秀吉は一つの土地の所有者は一人だけとします。
この考え方を一地一作人の原則と呼ぶため、併せて覚えておきましょう。また検地帳に登録された百姓は、名請人となりました。
名請人になれば領主から土地の所有が認められ、自由に耕作できる権利が与えられます。しかし年貢の義務が発生し、一定の割合の米を納めないといけませんでした。
豊臣秀吉が天下統一を果たした1591年には、検地帳を国絵図を全国各地の大名に提出させます。こうして各大名の石高を決め、その数値に応じた軍役(軍事的な義務)を課しました。
刀狩令で反乱を抑止
小田原攻めが始まる前の1588年、豊臣秀吉は刀狩令を実施しました。具体的には百姓から武器を取り上げ、農作に力を入れるようにする施策です。
これまでも百姓たちが一揆を起こし、各地で反乱が発生したことも少なからずありました。しかし上記の内容を直接伝えると、人々から抵抗されかねません。
そこで豊臣秀吉は「方広寺の大仏の釘として使いたい」と言って、武器の回収に成功しました。こうして豊臣秀吉の政権において、百姓たちは農業に専念したわけです。
人掃令で身分の変更を禁止
豊臣秀吉は、1591年に人掃令を出しました。人掃令とは、村に住む人の数や性別、職業などの調査を目的とした法令です。
この頃、豊臣秀吉は朝鮮出兵に意気込んでいました。そのため二代目関白の豊臣秀次(秀吉の甥)の名で人掃令を出し、朝鮮出兵に向けた人員および税収を確保しようとします。
一方で人掃令では、武士が百姓や町人になったり、百姓が町人になったりすることを禁じていました。元々の狙いは朝鮮出兵の準備でしたが、結果的には兵農分離につながります。
豊臣秀吉の歴史のまとめ
豊臣秀吉は山崎の戦いで明智光秀を倒すと、天下統一に向けて快進撃を続けました。賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原攻めといった戦いに勝利し、最終的には天下統一を成し遂げます。
また天下統一を目指す過程で、百姓たちの反乱を防ぐ取り組みも実施します。しかし順風満帆に見えた豊臣秀吉の政治も、朝鮮出兵の失敗により陰りが見えました。
豊臣秀吉に関しては、期末試験や共通テストで出題される可能性があります。江戸時代に切り替わるうえで、重要な時代ともなるのでマスターできるようにしましょう。