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豊臣秀吉の朝鮮出兵とは?文禄の役と慶長の役をわかりやすく解説

豊臣秀吉の有名な政策の一つが、朝鮮出兵です。しかし朝鮮に攻めたものの、あまり良い結果は得られませんでした。

この記事では、豊臣秀吉の朝鮮出兵についてわかりやすく解説します。日本史を勉強している方は、ぜひ最後まで読んでみてください。

 

豊臣秀吉の朝鮮出兵

全国統一を果たした豊臣秀吉は、日本だけではなくアジアへの進出も考えていました。日本がアジアの中心に立ち、朝貢貿易を推し進めるのが狙いの一つです。

この当時、アジアのライバルとして明(当時の中国)がいました。明を攻略すべく、冊封関係にあった朝鮮に対し、自軍としての出征を要求します

さらに日本に服属させようと、貢物を持って頭を下げるように求めました。その要求に朝鮮が反発したため、豊臣秀吉は「懲罰」として二度の戦を起こします。

とはいえ文禄の役と慶長の役においては、豊臣秀吉自身が朝鮮半島に行っていたわけではありません。自身は日本に残り、部下だけを遠征させた戦でした(徳川家康も日本に残った)。

なお豊臣秀吉が全国を統一するまでの動きは、以下の記事でも詳しく解説しているので、こちらも併せて読んでみてください。

 

文禄の役

文禄の役とは、1592年に豊臣秀吉が15万余りの軍を朝鮮に向かわせた戦いです。この戦いについては、豊臣軍も快進撃を続けました。

しかし豊臣軍に誤算が生じ、結果的には休戦となります。この流れについて、詳しく見ていきましょう。

初戦は豊臣軍が快進撃を見せた

文禄の役において、豊臣秀吉は釜山(現在の韓国の都市)をターゲットにしました。小西行長の軍を向かわせ、占領に成功します。

特に初戦での朝鮮軍の被害は甚大であり、豊臣軍が快進撃を見せるきっかけとなりました。さらに小西行長は、梁山城や密陽を攻め落とす活躍も見せています。最終的に豊臣軍は、平壌(現在の北朝鮮の首都)も支配することに成功しました

一方で朝鮮水軍を率いていた李舜臣も、日本船を破るなどの活躍はしています。しかし釜山の奪回は果たせず、朝鮮軍が苦戦していたのは明らかでした。

補給路の確保に苦戦した

勢いに乗った豊臣秀吉側にも、補給路の確保がうまく行かないといった誤算がありました。豊臣軍が支配していた漢城には、輸送船が食料などの物資を運んでいました。

しかし豊臣軍が快進撃を続けたことで、戦線が一気に伸びてしまいます。したがって釜山まで物資を運べても、そこから戦線へ届けるのに苦戦したわけです。

なお李舜臣の活躍により、日本の輸送船が鎮圧されたのは一回しかありません。そのため李舜臣が日本の物資を断った説は、極めて考えにくいといえます。

休戦状態に至った

快進撃を続けた豊臣軍でしたが、李如松が攻め込んだ際には平壌を奪回されてしまいます。一方で碧蹄館の戦いでは、逆に李如松の軍が手痛い敗北を食らいました。

こうした影響もあり、日本も明も心のどこかで「停戦」が頭を過ぎりました。そこで小西行長は、明の使者に対して休戦協定を結びます。

なお朝鮮側は、豊臣軍との休戦には反対の立場でした。しかし明と君臣関係を結んでいたために、朝鮮側の意見は汲んでもらえなかったのです。

休戦に至った文書の真相

そもそも文禄の役は、日本と明の両方とも完勝したわけではありません。双方とも本来の目的を果たせていないためです。

こうした経緯から、小西行長と明の使者は「お互いに謝罪する形」で文書を書き換えます。つまり明に送る文書には豊臣秀吉からの謝罪、豊臣秀吉に送る文書には明の皇帝の謝罪が書かれていました。

とはいえ、このような嘘がバレないわけはありません。豊臣秀吉は取引した小西行長にひどく怒り、切腹を命じました。周囲がなだめて小西行長の切腹は取り下げられましたが、休戦協定は破棄されて慶長の役がスタートします。




全体的に部下たちのモチベは低かったみたい

 

慶長の役

慶長の役は、1597年に豊臣秀吉が14万余りの兵を朝鮮に送り込んだ戦乱です。慶長の役でも、豊臣秀吉や徳川家康らは日本に残っています。

しかし豊臣秀吉が日本で亡くなってしまい、兵を撤退せざるを得なくなりました。ここまでの流れを簡潔に説明します。

初戦は豊臣軍が快勝

慶長の役についても、初戦は豊臣軍が快勝しました。特に一度切腹から逃れられ、プレッシャーのかかっていた小西行長が大活躍を見せます

朝鮮水軍にどんどん襲いかかり、相手の船を沈めていきました。朝鮮側は、初戦で主力を戦死させてしまいます。

また漢城の兵たちも、日本軍が再度押し寄せたことでパニック状態となりました。その後の戦いでも、明や朝鮮の兵を苦しめるなど豊臣軍は勢いに乗ります

豊臣秀吉の死

豊臣軍の朝鮮出兵において、一番の誤算は豊臣秀吉の死亡でした。日本に残っていた豊臣秀吉は伏見城に徳川家康を呼び、自分の息子である秀頼の後見人になるよう伝えています。

その後、豊臣秀吉は62歳で亡くなりました。死因については、梅毒や大腸がんなどとさまざまな説があります。

後継者となったのは息子の豊臣秀頼でしたが、当時まだ5歳だったので政治を仕切れる年齢ではありません。そのため豊臣軍は、日本に引き返さざるを得ませんでした。




豊臣秀吉が生きていたら朝鮮出兵はどうなってたかな?

 

朝鮮出兵の結果は「負け」か

学校の教科書では、朝鮮出兵で豊臣軍は負けたかのように書かれています。無論、結果的に明を攻略するという目的は果たせなかったので、出兵自体は「失敗」に終わりました

ただし豊臣軍は対外的にも強力であり、明や朝鮮軍をきちんと苦しめています。特に朝鮮軍は実戦に乏しく、明の後ろ盾がなかったら危険な状態でした。

また朝鮮出兵の攻略があまり進まなかったのは、明の勢力が大きかっただけではなく、部下たちのモチベーションにも原因があります。小西行長が途中で下手な交渉をしたり、反対に加藤清正は深入りしすぎたりと連携が取れていませんでした。

特に加藤清正は満州地方まで攻め込んでしまい、補給が追いつかないという事態も招きました。こうした行為が、後に石田三成と不仲になった原因とも推測されています。

まとめると、当初の目的を果たせなかった点だけ見れば、朝鮮出兵は失敗だったといえます。しかし戦自体は勝利した回数も多く、決して豊臣軍が弱かったわけではない点も覚えておくとよいでしょう。