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貫高制と石高制の違い|制度が変わった理由をわかりやすく解説

日本史を勉強する中で、貫高制および石高制という用語を聞いたことがあるはずです。どちらも収穫高を知るうえでの単位を指しますが、方法や基準に違いがあります。

この記事では、貫高制と石高制の違いについてわかりやすく解説します。高校日本史を勉強されている方は、ぜひ最後まで読んでみてください。

 

貫高制とは

貫高制とは、鎌倉時代〜室町時代(戦国時代)に用いられた、土地の収穫高を調べる制度のことです。田地の面積からどの程度の年貢を得られるかを、銭に換算していました

換算する際に用いられた通貨の単位が「貫」であり、各大名が独自に基準を設けたのが特徴です。現代的に置き換えれば、これまで米の「グラム」で数えられていた税を、「円」に換算したみたいな考え方であると押さえてください。

貫高制が採用された理由

貫高制が採用された理由は、宋銭の普及が高まったことで、年貢を通貨で納めるようになったためです(代銭納)。また貫高制は、軍役を決めるうえでも役立ちました。

軍役とは、戦時中に武士が負う軍事の仕事を指します。要するに年貢を多く納めた地域ほど、より多くの軍を動員できるようになるわけです。

貫高制の基準の決め方

「貫高」の単位は、各地域によって独自に決められていました。つまり全国的に統一されていたわけではなく、基準も各大名の判断でバラつきがありました

たとえば後北条氏の場合、田1段ごとに500文の基準を採用したと言われています。そこに土地の面積を乗じ、最終的な税収を決めていました(500文×土地の面積=税収)。

以上から税収を決める要素として、あくまで重視されていたのは土地の面積です。土地から取れる収穫量が判断材料にならなかったため、より多くの生産物を収穫できる土地が有利となる制度でした(相対的な税収が低くなる)。

貫高制が衰退した理由

関東地方を中心に発展していった貫高制ですが、そこまで長続きせずに衰退しました。その理由として、当時の日本では銭を多く作れなかった点が挙げられます。

現代では当然のように貨幣が発行されていますが、中世の頃は宋から輸入していました。また粗悪な私鋳銭の増加により、通貨そのものの価値も下がってしまいます。

そこに加え、日本では銀の生産量が大幅に向上しました。こうした背景もあり、日本国内では通貨の供給があまり伸び切らなかったわけです。

やがて代銭納も機能しなくなり、税収を調べるうえで「米の量」が再び重視されました。江戸時代以降は日本でも貨幣が作られるようになりましたが、貫高は特に復活しませんでした。

 

石高制とは

石高制とは、土地の収穫量を調べるうえで「石高(米の収穫量)」を単位とした制度です。織田政権の頃も一部の地域で実施していたようですが、全国的に普及したのは豊臣秀吉が太閤検地に着手してからでした。石高制は、明治時代まで採用されました

なお石高は、「こくだか」と呼ぶので読み方も併せて覚えるようにしましょう。同じく石高制の特徴を詳しくまとめていきます。

石高制が採用された理由

石高制が採用された理由として、貫高よりも評価方法が妥当だった点が挙げられます。豊臣秀吉の太閤検地により、貫高制を採用していた土地が「石高制」に切り替えられました。この様子を天正の石直しとも呼ばれています。

また石高制の狙いには、下剋上の防止もありました。戦国時代では下剋上が各地で見られましたが、その一因となっていたのは税の中間搾取者がいたからでした。

戦国時代の有力農民らは百姓から年貢を搾取し、その土地の領主となっていました。財産と権力をつけた領主は武士となり、大名らを倒す風潮ができ上がったわけです。

豊臣秀吉はこうした下剋上を阻止すべく、兵農分離を掲げます。百姓を検地帳に登録し、名請人として土地の所有権を認めます。一方で百姓は村に対して直接納税の義務を負い、村がまとめて税を国に納める方法が採用されました(村請制)。

なお戦国時代と下剋上の関係は、下記の記事でもまとめているので併せて参考にしてください。

石高制の基準の決め方

石高制は貫高制とは異なり、全国的に基準が統一されたのが特徴です。面積表示では、新たに歩・畝・段・町の4つに統一されました。

  • 1歩:四方6尺3寸(1辺約191cm)
  • 1畝:30歩
  • 1段:10畝(300歩)
  • 1町:10段

さらに米の量を測る際には、全国統一の京枡を用います。したがって各土地の生産状況に合わせ、公平に年貢を回収できるようになりました。

石高制が衰退した理由

石高は明治時代の地租改正がなされるまで、日本で採用されていたと考えられています。一方で明治時代以後に衰退した理由は、税を通貨で納めるようになったためです

米で税を納める制度の場合、農作物の採れない時期が続くと、国全体が財政難に陥ってしまいます。江戸時代の日本でも、天保の飢饉などで人々が苦しめられました

こうした歴史を踏まえ、明治時代の地租改正によって税を金納にしつつ、石高制は廃止に至りました。とはいえ安土桃山時代から明治時代初期まで続いたことを考えると、比較的長く残っていた制度といえます。

 

貫高制と石高制の違いまとめ

貫高制と石高制はどちらも土地制度や税制を指しますが、それぞれ単位に違いがあります。貫高は銭を基準としていますが、石高は米を基準にしているのが特徴です

貫高制が始まった背景には、日宋貿易の影響で宋銭が国内に入ってきた点が挙げられます。しかし当時の日本では通貨を作れず、やがて衰退してしまいました。

そこからは米の収穫量を基準とした石高制が一般的となり、明治時代の地租改正まで続きます。これらの制度の違いを押さえつつ、自分なりに区別できることが大切です。