皆さんは、室町幕府第6代目将軍の足利義教を知っていますか。この人物は万人恐怖と呼ばれるほどの政治を敷いており、最終的に暗殺されました。
この記事では、足利義教がどのような政治を敷き、誰に暗殺されたのかを詳しく解説します。日本史を勉強している高校生や大学生の方は、ぜひ参考にしてください。
足利義教とは
足利義教は、第6代目将軍に選ばれた人物です。彼の政治は万人恐怖と呼ばれており、人々から恐れられていました。ここでは、足利義教の人物像や経歴を詳しく解説します。
くじ引きで将軍に選ばれた
足利義教が就任する前、足利義量が室町幕府の第5代将軍として政治を行っていました。彼は4代目将軍である、足利義持の子どもでした。しかし生まれつき体が弱く、かなりの酒好きだったことも重なり、父よりも早く亡くなってしまいます。
本来であれば、父親である足利義持が後継者を決めなければなりません。一方で足利義持は、自分で後継者を定めず家来たちに任せました。結果的に43歳で亡くなり、家来たちは仕方なく「くじ」で次の将軍を決めることにします。
そこで足利義持の弟である、足利義教が6代目将軍に選ばれました。こうした経緯もあり、足利義教は「くじ引き将軍」と呼ばれることもあります。
万人恐怖の政治体制を敷いた
足利義教の政治の特色として、万人恐怖と言われるほどの厳しい体制を敷いたことが有名です。例として妻である日野重子の兄、日野義資への処分が挙げられます。日野義資とは将軍就任前から折り合いが悪く、謹慎処分を命じていました。
その最中、足利義教と日野重子との間で義勝(7代目将軍)が誕生します。そこで日野義資の家来は、謹慎処分も解けるだろうと居宅へ向かいます。
しかし足利義教はあらかじめ部下を手配し、訪問者から所領や家督を奪いました。さらに日野義資が、何者かに暗殺される事件が起こります。この事件は足利義教が起こしたかはわかりませんが、彼はそう噂した人々を流罪に処しました。
ほかにも料理が美味しくないという理由で、料理人を処罰したという話もあります。些細なことで処罰を下したいたため、人々からは恐れられていました。病的な癇癪持ちだったと、一般的な評判はあまり高くありません。
日明貿易を再開した
足利義教の政治の特徴は、日明貿易を再開したことです。日明貿易は、3代目将軍の足利義満の時代にスタートした朝貢貿易でした。あくまで明が上の立場とする貿易でしたが、足利義満はプライドを捨ててまで輸入品を得ようと考えていました。
しかし4代目将軍の足利義持の時代では、日明貿易は一時中止されます。明が上の立場に立つ朝貢貿易に、足利義持は納得がいかなかったためです。
一方で足利義教は、足利義満がかつて採用していた政治を積極的に取り入れようとしました。彼は日明貿易を財政政策の基盤とし、実際に遣明船を視察するといった行動にも出たようです。日明貿易は、下記の記事で詳しくまとめています。
日明貿易・勘合貿易・朝貢貿易の違い|意味を簡単に解説 - 【資格の教室】ヤマトノ塾
足利義教は誰に暗殺された
恐怖政治で人々に恐れられていた足利義教は、最終的に暗殺されて生涯を終えてしまいます。この暗殺に至るまで、いくつか反乱に発展した事例もありました。ここでは暗殺される経緯を、それまでの反乱とともに解説します。
永享の乱
足利義教は万人恐怖と呼ばれる政治を敷いたことで、鎌倉府との関係が悪化しました。鎌倉府とは、室町幕府が地方行政を行うために設置された機関です。
さらに鎌倉府の長であり、関東10カ国を支配した立場を鎌倉公方と呼びます。当時の鎌倉公方は、足利持氏が就任していました。しかし足利持氏は、関東管領(鎌倉府をサポートする役職)である上杉憲実と対立します。
鎌倉府と仲が悪くなった足利義教は、この対立を利用しようと思い、上杉憲実に接近しました。上杉憲実に足利持氏討伐の命令を出し、永享の乱がスタートしました。
永享の乱では足利持氏側が敗北し、室町幕府によって永安寺に幽閉されてしまいます。最終的に足利義教は上杉憲実に永安寺を攻めさせ、足利持氏は自ら命を絶ちました。
結城合戦
もともと鎌倉幕府のあった関東では、室町幕府に属しつつも独立を狙っていました。一方で足利持氏を滅ぼした義教は、この調子で自身の勢力を関東にも拡大しようとします。
そこで足利義教は、自分の実子を鎌倉公方に出向させようと試みました。その動きに対し、足利持氏の子分や下総(現在の茨城〜千葉県あたり)を支配していた結城氏朝・持朝らが起こした反乱が結城合戦です。
しかし氏朝・持朝たちは、足利義教の勢いを止めることができませんでした。彼らを含め、多くの有力者が結城合戦で討ち死にしてしました。
嘉吉の変
止まることを知らない足利義教の勢いに、危機感を覚えていたのが赤松満祐です。彼はもともと足利義教から避けられており、所領を奪われるなど不遇な扱いを受けていました。こうして赤松満祐は病を患ったとし、仕事にも姿を現さなくなります。
一方の足利義教は、結城合戦に勝利したことで周囲から敵がいなくなりました。この環境下で油断したのか、足利義教は赤松氏が実施した「結城合戦の勝利を祝う宴会」という名目の誘いに乗ってしまいます。
宴会で足利義教が猿楽を楽しんでいたところ、背後から赤松氏の部下に殺害されました。こうして室町幕府は、一時絶対的な権力者だった将軍を失います。
ここからまだ9歳の足利義勝が7代目将軍になったこともあり、幕府の権力はどんどん小さくなりました。細川氏・山名氏を中心とする有力大名の力が強くなり、応仁の乱や明応の政変につながっていきます。これらの事件については、以下の記事で詳しく解説しているので併せて参考にしてください。
応仁の乱とは?戦乱のきっかけと結果について簡単に解説 - 【資格の教室】ヤマトノ塾
明応の政変とは?将軍の後継者問題についてわかりやすく解説 - 【資格の教室】ヤマトノ塾
足利義教に関するまとめ
足利義教の勉強をするうえで、押さえてほしいポイントは以下のとおりです。
- 万人恐怖と呼ばれる恐怖政治を敷いた
- くじ引きで6代目将軍に選ばれた
- 足利義満の政策を復活させた
- 赤松満祐らに暗殺された
一般的にはすぐに機嫌が悪くなり、怒りに任せて処分をしたなど悪く評価する人が多い印象です。一方で日明貿易を復活させたなど、仕事ぶりを評価する声もあります。
歴史人物に対して、どのような感想を抱くかは人それぞれです。まずは興味を持つことが大事であるため、ぜひ筆者の記事もいろいろと読んでみてください。