鎌倉時代から南北朝時代に移る中で、押さえておきたい事件が正中の変と元弘の変です。名前は知っているものの、出来事の詳細がわからない人もいるでしょう。
今回の記事では、正中の変と元弘の変についてわかりやすく解説します。鎌倉幕府滅亡までの流れを取り上げるので、高校日本史を勉強されている方は参考にしてください。
後醍醐天皇と鎌倉幕府
まずは正中の変と元弘の変を解説する前に、後醍醐天皇および鎌倉幕府の関係について解説します。
当時の鎌倉幕府は、経済政策の失敗や元寇で報酬がほとんどなかったことにより、御家人から不信感を持たれていました。幕府内での不満が爆発しかかっていた頃、京都の公家でも事件が起こります。
公家は持明院統と大覚寺統に派閥が分かれ、幕府の仲介により両方から交互に天皇を出すといった手法を取り入れます。両統迭立といわれる方法ですが、後醍醐天皇(大覚寺統)は自身の派閥一筋にしたいと考えていました。
こうして後醍醐天皇は、両統迭立を提案した鎌倉幕府の倒壊を企みます。この企みが、正中の変と元弘の変につながります。幕府の政治の失敗や両統迭立については、以下の記事を参照してください。
両統迭立とは?持明院統・大覚寺統の存在と後醍醐天皇の即位 - 【資格の教室】ヤマトノ塾
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正中の変(1324年)
正中(しょうちゅう)の変とは、後醍醐天皇が日野資朝や日野俊基とともに討幕計画を立てたものの、失敗に終わってしまった事件です。事件当時に何が起こり、結果的にどうなったかをまとめます。
正中の変のいきさつ
後醍醐天皇は酒宴を開くという名目で、日野資朝および日野俊基たちと作戦会議します。加えて主戦力として働いてもらう武士も何人か参加させました。
計画の内容は、畿内(近畿地方)の武士を集めて六波羅探題を攻めるといったものでした。六波羅探題は公家を監視する役職でもあり、幕府の中枢を担っているからと予想されます。
しかし宴会に参加していた一人(土岐頼員)は、計画に参加することで妻と別れなければなりませんでした。というのも、妻の父は六波羅探題で働いていたからです。
その別れを惜しんでか、土岐頼員は討幕計画の内容を妻に喋ってしまいます。当然ながら妻が父へ報告し、争いに発展したといわれています。
正中の変が終わったあと
六波羅探題は反逆者を鎮圧し、日野資朝および日野俊基は事情聴取のため出頭しました。後醍醐天皇も捕まりましたが、幕府宛てに謝罪文を送っていたようです。
とはいえ証拠は、土岐頼員の証言くらいしかありません。その証言も妻に漏らした言葉であるため、公共の場で叩くには材料が少なすぎる状況です。
併せて当時の鎌倉幕府は、天皇家との争いを避けたかったとされています。反逆者側が全員無罪となれば、公家から別の黒幕を探さないといけません。そうすれば大覚寺統のみならず、持明院統への調査が必要です。
そこで幕府側は、どうすれば公家と争わずに済むかを考えるために、日野資朝と日野俊基の事情聴取に時間を使いました。結果的に日野資朝は流罪となるものの、曖昧(あいまい)な形で収束します。弱気になっていた後醍醐天皇にも、無罪判決が言い渡されました。
元弘の変(1331年)
正中の変で何とか無罪に逃れた後醍醐天皇でしたが、懲りずに討幕の野望を持ち続けています。そこで兵力をアップしつつ着々と準備を進めていましたが、またもや野望が幕府にバレてしまいます。この一連の事件を元弘の変と呼びますが、具体的な内容について紹介しましょう。
元弘の変のいきさつ
後醍醐天皇は、護良親王と宗良親王の2人を延暦寺の座主(ざす)にしました。座主とは、延暦寺の長を指します。延暦寺の僧兵を呼び寄せて、兵力をアップさせるのが狙いです。
しかし武力での討幕に反対していた吉田定房が、幕府にその動きをバラしてしまいます。こうして怒り心頭の幕府は、六波羅探題に後醍醐天皇を捕まえようと命じました。
後醍醐天皇が幕府から隠れている間、兵を起こしたのは楠木正成です。楠木正成は悪党の一人と考えられており、幕府に対抗し続けました。
一方で肝心の僧兵はほとんど集まらず、とうとう後醍醐天皇は捕まってしまいます。後醍醐天皇は隠岐の島に流され、日野俊基と日野資朝は討ち首となりました。
元弘の変が終わったあと
後醍醐天皇が流されたあとに幕府は光厳天皇を擁立し、一件落着したと見えましたが元弘の変は終わりではありませんでした。ここで活躍したのは、楠木正成を中心とする悪党です。
楠木正成の戦法にとらわれない攻め方は、数多の幕府軍を翻弄していました。赤松円心も討幕に加わり、悪党はどんどん勢いをつけます。着々と鎌倉幕府の終わりを迎えています。
鎌倉幕府の滅亡
後醍醐天皇は隠岐の島から脱出し、鳥取県の船上山にたどり着きました。その情報を聞きつけた幕府は、船上山を攻めるために足利高氏(尊氏)を京都に送ります。
しかし足利高氏は、亡くなった父親を弔う前に出兵させられたことから、幕府に対して恨みを持っていました。そこで京都に向かいつつ、天皇とも連絡を取り合って討幕の決心をします。
足利高氏が討幕軍に寝返ったことで、全国の武士は一気に鎌倉幕府を攻めます。足利高氏自身も、赤松円心とともに重要な機関である六波羅探題を滅ぼしました。
さらに鎌倉幕府へ直接攻め入ったのは、源氏の一門である新田義貞です。観念した北条氏は次々と自ら命を絶ち、1333年に鎌倉幕府はとうとう滅亡しました。
足利高氏が討幕軍に寝返ってから、1ヶ月程度の出来事だったそうです。このことからも、足利高氏の影響力の強さがうかがえます。
正中の変・元弘の変まとめ
正中の変と元弘の変は、いずれも身内のチクり行為がきっかけに失敗となりました。一度はお咎めなかった後醍醐天皇も、元弘の変のあとはさすがに流罪となります。
しかし後醍醐天皇の討幕への意志の固さや悪党の活躍により、最終的には鎌倉幕府は滅亡しました。正中の変や元弘の変こそ失敗に終わったものの、鎌倉幕府を滅ぼすきっかけにはなったといえます。
鎌倉幕府が消滅したことで、後醍醐天皇による新たな政治がスタートします。日本史を使う受験生は、ここまでの流れをある程度は説明できるようにしましょう。