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南北朝時代はどっちが勝ったの?勢力図をわかりやすく解説

南北朝時代は2つの勢力に分かれて戦ったことは知っていても、どっちが勝ったかを忘れてしまう人もいると思います。室町幕府の成立において重要な時代ですが、少し影が薄いと感じる人はいるでしょう。

この記事では、南北朝時代において勢力図とどっちが勝ったのかをわかりやすく解説します。日本史を専攻されている人は、ぜひ今回の内容を参考にしてください。

 

南北朝時代とは

南北朝時代とは、日本の勢力が北朝と南朝に分かれていた時代です。北朝は、京都の朝廷を指します。一般的に日本の北側というと、北海道や東北地方を想定するでしょう。

そのため京都が北朝と呼ばれていると、少し違和感を覚えると思います。そこで日本地図を見ながら、南北朝時代の成り立ちを押さえてください(「いらすとや」を使用)。

北朝(京都)と南朝(吉野)の位置をわかりやすく示した図

日本地図を見てみると、京都の南側には奈良県があります。昔の奈良県は「大和」と呼ばれており、地域の一つに「吉野」が存在していました。

南北朝時代の南朝とは、まさに吉野にあった朝廷を指しています。まとめると南北朝時代は、京都(北朝)と吉野(南朝)の2つに分かれて争った時代です。

 

南北朝時代の勢力図

南北朝時代の勢力図をわかりやすくまとめた図

南北朝時代は北朝と南朝に勢力が分かれたことを説明しましたが、それぞれ誰が政権をにぎっていたと思いますか。なお鎌倉時代に活躍していた人物の一人が後醍醐天皇です。

さらに室町時代のキーマンにもなる、足利尊氏も南北朝時代に深く関わってきます。北朝と南朝に区別して、どの人物が中心に立っていたかを見ていきましょう。

北朝:足利尊氏

そもそも京都では、後醍醐天皇が天皇中心の政治である建武の新政を実施しようと励んでいました。しかし結果的に失敗に終わり、地方武士の反乱を各地で招いてしまいます。その反乱の代表例が、中先代の乱や湊川の戦いです。

幕府滅亡の立役者の一人でもある足利尊氏は、混乱を招いた原因として後醍醐天皇を廃しました。代わりに持明院統の光明天皇が、天皇の地位に立ちます。

さらに足利尊氏が今後の政治方針を掲げるべく、建武式目を公表します。武家中心の政治にすることが支持され、足利尊氏は京都に室町幕府を作りました。1336年11月7日の話です。

南朝:後醍醐天皇

天皇の位を失った後醍醐天皇は、吉野に身を隠していました。こうして考えると各地へ飛ばされたり、戻ってきたりとせわしない人生を送っていますね。

北朝では足利尊氏が権力をにぎっているものの、当然ながら後醍醐天皇は納得できません。「自分が正統な権力者である」ことを証明すべく、吉野に朝廷を作ります。この動きが、北朝と南朝に権力が分かれた原因です。

 

 

南北朝時代はどっちが勝った

結論から述べると、南北朝時代の争いに勝ったのは足利尊氏率いる北朝です。室町時代が始まることを考えれば、何となく予想はできたと思います。

北朝と南朝は、厳密にいえば約60年くらい争ったと考えられています。とはいえ実際に対等に渡り合えたのは、ごくわずかな期間です。実際の争いの様子について詳しく説明します。

北畠顕家と新田義貞の戦死

鎌倉時代の滅亡にも貢献した北畠顕家と新田義貞は、南朝側の中心人物でもありました。しかし南北朝時代の序盤から2人が相次いで戦死してしまったため、一気に不利な状況に立たされます。

こうした状況に加えて、リーダーである後醍醐天皇までもが病に倒れました。結果的に後醍醐天皇は崩御(死去)し、南朝は統一されるまで劣勢を覆せませんでした。その後は北畠親房が、少ない兵力を使って何とか南朝を守ります。

北朝における二頭政治

南朝は序盤から壊滅状態にあったにもかかわらず、北朝は決着をつけるのに苦労していました。その原因の一つとして挙げられるのが、北朝側でも内部分裂が進んでいたためです。

1338年、足利尊氏が征夷大将軍の役職に就きました。一方で、幕府では弟の足利直義を推す人たちも増えていきます。足利直義は極めて優秀であり、建武式目を実質的に作った人物ともいわれるほどです。

こうして北朝側では、まさかの足利尊氏と足利直義の二頭政治が誕生しました。軍事は兄の尊氏が、政治は弟の直義が担います。

はじめは2人で協力し合っていましたが、権力を分裂させた状態を維持し続けるのは難しいものです。最終的に両者は争うようになり、南朝の制圧が遅れてしまいます。

観応の擾乱の発生

足利尊氏と足利直義の間で戦乱がぼっ発する原因となった人物が、高師直です。彼は尊氏の執事を務めており、元来の伝統を否定する考えが強い人物でした。足利直義は伝統も受け入れる立場だったため、お互いに真反対な意見を持っていました。

やがて新興派の武士は高師直側(足利尊氏側)につき、保守派の武士は足利直義につきます。こうして全国的な戦乱である観応の擾乱が始まりました(1350年)。

観応の擾乱と南朝の関係

観応の擾乱は2年にわたって続いただけではなく、南朝側も絡んできた複雑な戦乱となったのが特徴です。南朝は、北朝の内部分裂に乗じて京都へ4回も攻め込みました。

北朝側は高師直が殺害され、足利直義も戦乱で敗れた後に急死します。しかし中心人物が亡くなってからも、観応の擾乱はしばらく続きます。おまけに直義の養子である足利直冬が目覚ましい活躍を見せ、足利尊氏を追い詰めることもありました。

現に足利尊氏や直冬たちは、それぞれ南朝に形式上は降伏しています。結果的に足利尊氏が勝利を収めたものの、多くの武士が北朝や南朝に行ったり来たりして、戦乱の長期化につながったわけです。

南北朝の合一

長く続いた北朝と南朝の争いですが、足利義満の時代になると落ち着きを見せるようになりました。北朝側は足利氏の政権が安定し、勢いを取り戻します。一方で南朝は中心人物や拠点も失い、逆に勢力が衰えていました。

さらに南朝では、後亀山天皇が擁立します。この天皇は和平の立場をとり、将来的に両統迭立の形を採用するという条件で、南北朝の合一にも応じました。

ただし両統迭立は最終的に実現せず、北朝側は南朝側の人間を次々と出家させます。こういった裏切りもあり、南朝側の争いはひそかに続いていたようです。両統迭立の意味は、以下の記事でも詳しくまとめているので参考にしてください。

 

南北朝時代の争いまとめ

南北朝時代では、北朝と南朝に分かれて争われた時代でした。北朝では足利尊氏、南朝では後醍醐天皇が中心に立ちます。

約60年にわたる争いの結果、北朝側が最終的に勝利しました。短期間で決着がつきそうだったものの、北朝側の内部分裂のせいで時間がかかってしまいます。

南北朝時代の争いにおいて、チェックしたい事項の一つが観応の擾乱です。観応の擾乱は、足利尊氏と足利直義が争った北朝側の内乱を指します。