日本史の中でも、有名な戦乱の一つに挙げられるのが応仁の乱です。名前は聞いたことがあるものの、何がきっかけで起こった戦か分からない人もいるでしょう。
この記事では、応仁の乱が起こったきっかけと戦乱の結果を簡単に解説します。併せて年号の語呂合わせについても紹介します。
高校レベルの日本史としては、少々深入りしすぎている内容です。ただし当時の状況をイメージしやすいように背景を解説するので、ぜひ記事を参考にしてください。
応仁の乱とは
応仁の乱とは、室町時代に起こった全国的な大戦乱のことです。11年にもわたって戦いが繰り広げられ、戦国時代へ移り変わるきっかけにもなりました。
応仁の乱が始まった年は、1467年とされています。語呂合わせで、「14(ひとよ)67(むなしい)応仁の乱」と習った人もいるでしょう。個人的に語呂合わせはそこまで好きではありませんが、そのほうが覚えやすい人は活用してください。
応仁の乱のきっかけ
応仁の乱のきっかけにはさまざまな要因が絡んでおり、一言で説明するのは難しいでしょう。あえて要因をしぼるとすれば、以下の内容が挙げられます。
- 足利義政の権力の弱体
- 足利氏の後継者問題
- 細川勝元と山名持豊の対決
ここでは、応仁の乱のきっかけとなった背景を詳しく解説します。
足利義政の権力の弱体
応仁の乱が発生した遠因として、将軍の権力の弱体化が挙げられます。室町幕府が成立した当初は足利尊氏や足利義満など、絶対的な権力を持つ将軍が君臨していました。
しかし5代目将軍の足利義量がわずか18歳で亡くなってしまい、6代目将軍をくじ引きで決めるという出来事が起こります。結果的に足利義教が選ばれましたが、彼は力で人を抑えつけ、平気で処罰をする怖い人物でした。この状態は「恐怖政治」とも呼ばれ、以降は人々の幕府への信頼が失っていきます。
足利氏の後継者問題
応仁の乱を語るうえでは、将軍の後継者問題も無視できません。一般的な流れでいえば、将軍の位はその子が引き継ぎます。
8代目将軍には足利義政が就任していましたが、彼は29歳の時点で子どもがいませんでした。そのため彼自身は弟の義視(よしみ)を養子にして、後継者にしようと考えます。
しかしその1年後、妻の日野富子との間に義尚(よしひさ)が誕生しました。当然ながら富子は義尚をこよなく愛し、将軍の後継者にしようと山名持豊(宗全)に持ちかけたのが原因とこれまで考えられていました。
一方で近年では、この説に反対する声も少なくありません。この説は「応仁記」を参考にしていますが、そもそも資料が嘘を書いている(誇張している)と見られているためです。
応仁記では日野富子を悪者にしていますが、実際に義視擁立を反対していたのは義尚の育成係である「伊勢貞親」とも言われています。何が正しいかは不明ですが、とりあえずは足利義視と足利義尚のどちらを将軍にするかが争点の一つだったと考えてください。
細川勝元と山名持豊の対立
後継者問題に拍車をかけたのは、細川勝元と山名持豊の参戦です。彼らは最初から仲が悪かったわけではなく、両家とも守護を担っていたために協調しようと考えていました。
しかし足利義教が失脚したあと、山名氏の勢力がどんどん拡大していきます。細川勝元はその動きを警戒していましたが、その最中に足利氏の後継者問題が起こります。
とはいえ元々は、2人とも足利義視を推す立場にいました。室町幕府の実力者である、伊勢貞親が足利義尚を推すことに、どちらも反対していたためです。
しかし伊勢貞親が追放されたあと、側近がいなくなった足利義政は政治を行うのが難しくなりました。義政が政治の中心に立たない間、各大名たちが幕府を引っ張っており、そこから亀裂がどんどん大きくなります。
足利義政って政治にやる気がなかったと言われるけど本当?
政治に対してやる気はあったよ!でも側近を失ったり、有力大名が各自で争ったりと止めようがなかったって感じかな
応仁の乱の状況と結果
応仁の乱を勉強するうえで、しばしば以下の表を目にすることがあるかと思います。
西軍 | 東軍 | |
---|---|---|
将軍家 | 足利義視 | 足利義政 足利義尚 |
実力者 | 山名持豊 畠山義就 |
細川勝元 畠山政長 |
有力大名 | 大内 一色 土岐 六角 |
赤松 京極 武田 |
しかし実際には西軍と東軍はいろいろと入れ替わっており、史実を深く読んでいくと混乱しかねません。ここでは応仁の乱において、戦況がどう変わるのかをまとめます。
畠山氏の後継者問題
足利将軍が後継者問題を抱えていたころ、有力大名である畠山氏も同様のトラブルが起こっていました。元々は畠山義就がトップとなりましたが、細川勝元は畠山政長を中心に置こうとします。山名持豊は義就側に立っていたので、畠山氏の後継者問題で山名と細川は対立していたのです。
軍事に力を入れすぎていた畠山義就は、細川勝元の策略によって畠山政長にトップの座を奪われます。義就は吉野に逃亡し、政長は勢力を強めていました。
しかし足利義政と接触する機会の与えられた畠山義就は、このチャンスを活かしてトップの座を奪い返します。孤立した畠山政長は、細川勝元のいる屋敷へ逃げました。
この一連の事件において、御霊合戦が勃発します。その御霊合戦こそ、11年にもわたる応仁の乱の幕開けとなりました。
畠山氏は山名氏や細川氏と肩を並べるくらい勢力が大きかった大名だよ!
伊勢貞親が権力を取り戻した
山名持豊が重要な拠点を押さえていき、徐々に細川勝元は幕府の中心から追いやられます。そこで東軍が細川勝元や畠山政長など、西軍が山名持豊や畠山義就などに分かれて戦乱が始まります。
この東軍と西軍の決め方は、あくまで陣を置いた位置関係です。大名たちにとっては、正直なところ足利氏の後継者問題はどうでもいいことでした。
足利義視は、元々足利義政と同じく畠山義就側を助けていました。とはいえ戦乱が始まるころは、東軍と西軍に和平を持ちかけるなど中立な立場にいたといえます。しかし細川勝元の懇願により、戦乱が始まってからは東軍の総大将となります。
足利義政は変わらず中立な立場にいましたが、この頃から彼は自分の子である義尚に権力を譲ろうと考えました。そこで追放された伊勢貞親を呼び戻し、彼に再び権力を与えます。
伊勢貞親は、足利義政と日野富子の子である義尚を推していた人物です。当然ながら足利義視にとって、この出来事は極めて厄介でした。
足利義視の逃亡・西軍入り
伊勢貞親が戻ってきたことに危機感を覚えた足利義視は、伊勢国(現在の三重県)に逃亡します。ただし足利義政や細川勝元が説得し、一度は東軍に復帰しました。
その際に義視は、義政に対して義尚を排除するように要求します。しかし義政はこの要求を聞き入れず、むしろ伊勢貞親を政務に復帰させました。そこで細川勝元の勧めもあり、義視は比叡山へ出家します。
一方で西軍は比叡山に使者を送り、義視を自分たちの味方に引き入れました。この誘いに義視も乗じて、西軍側に移ります。
こうした動きにつながったのも、細川勝元の狙いだったと考えられています。山名持豊を推進している日野富子を幕府内で孤立させるためです。現に細川勝元は、足利義視が相手となってからは西軍と戦わなくなりました。
応仁の乱の終わり
応仁の乱が始まってから6年後、山名持豊と細川勝元が相次いで亡くなりました。さらに1475年、それぞれの子である山名政豊と細川政元が和平を結びます。山名政豊が東軍に入る形で、畠山義就らに攻撃を仕掛けました。
そこから小さな戦いは続きますが、有力大名が少しずつ東軍に降伏するようになります。さらに足利義政は、義視に対して処罰しないから降伏するよう伝え、彼も応じました。有力大名の大内氏も、大内政弘を中心にほとんどが東軍に投降します。
11年にもわたって続いた戦乱でしたが、有名な人物が戦死することはありませんでした。戦後に処罰された人もおらず、応仁の乱は静かに終わりを告げました。
東軍と西軍の入れ替わり
テキストには元々足利義視は東軍にいて、足利義尚は西軍にいたものの、途中で東西が逆転したみたいに書かれていることもあります。しかし筆者としては、この書き方が正しいと思えないのが正直な感想です。
足利義視が最初は東軍にいたのは、史実を読んでも正しいといえます。しかし足利義尚の場合は、あくまで御霊合戦時に山名氏と接近していたというだけの話です。
そもそも義尚は幼い子どもであり、応仁記のとおり日野富子が山名持豊に近づいたとしても、将軍で血族の足利義政と敵対するのは不自然でしょう。実際のところ、日野富子も足利義尚も変わらず東軍に居続けたと考えるのが自然です。
テキストや問題集は情報を少なくしすぎて、逆に理解を妨げてしまう傾向があります。納得のいかない部分があったら、自分でさらに深く調べてみるのをおすすめします。
多分、覚えやすいようにあえて「義視と義尚が東軍・西軍入れ替わった」と書いたのかな?
応仁の乱後の有力者たち
最後に応仁の乱に深く関わった有力者たちが、戦乱が終わったあとどのように過ごしたかをまとめます。人物史を押さえるうえでの参考にしてください。
足利義政:譲位後も政務を担当
足利義政は、将軍の位を自身の子である義尚に譲りました。とはいえ実質的な権力を握ろうとしていたので、日野富子や義尚との関係性も次第に悪くなったようです。
1489年に義尚が病死し、その後は義視の子である義稙(よしたね)を擁立しようと考えました。その際にも義政は、まだ自分で政治をしたいと意欲を見せます。
しかし翌年の1490年1月7日、義政は老衰により亡くなりました。義政は銀閣の造立に向けて励んでいましたが、亡くなったため自身で銀閣の完成した姿を見ることはできませんでした。
足利義視:待遇が改善された
後継者問題の中心に立っていた足利義視は、自身の子である義稙を10代目将軍に推薦しました。9代目将軍の足利義尚には子がおらず、日野富子からも賛同されます。
一度は足利氏と対立していた足利義視でしたが、応仁の乱後はわだかまりも解けていったとのことです。足利義政が亡くなったあとも、周囲の言動により離れただけで、元々の兄弟愛は良かったと述べたともいわれています。
ただし日野富子とは、その後も後継者争いで揉めたようで、彼女の所領を奪うといった動きも見せました。1491年、がんにより足利義政と同じく1月7日に亡くなります。
足利義尚:9代目将軍になる
1482年、足利義尚は義政から9代目将軍の座を譲り受けました。しかし義政は変わらず権力を握ろうとしており、実質的には義政が政治を仕切っていたとのことです。
さらに応仁の乱で多くの人が戦乱に関わった結果、身分の低い者が高い者を打ち破る下剋上の風潮が広まりました。そのため室町幕府の権威は次第に衰えていきます。
その最中、守護である六角行高が奉公衆の所領を奪う事件が発生しました。六角氏を討伐すべく、足利義尚も陣地へ向かいますが、そこで病死してしまいます。
日野富子:嫌われ続けた人生
自分の子である義尚を推していた日野富子は、応仁の乱後もたびたび事件を起こします。内裏の修復に使うお金(税金)を着服し、民衆の徳政一揆を招きます。その結果、民衆だけではなく公家にも嫌われてしまいます。
さらに愛していた足利義尚からも、最終的には遠ざけられるようになりました。10代目将軍にあたる義稙の擁立には成功したものの、彼ともまた敵対します。
さまざまな方向で敵を作り続けた日野富子でしたが、後継者問題に口を出し続けます。細川政元と協力して義稙を引きずり下ろしたあと、11代目将軍として足利義澄を擁立させました。この出来事が明応の政変であり、高校日本史でも習う内容です。
周囲からの評判は低かったはずですが、権力が大きく結果的に彼女の思うがままに政治が動いていたように筆者は感じます。最期は1496年に病死しました。
応仁の乱まとめ
応仁の乱が複雑な理由は、戦乱の状況がいろいろと変わるからです。足利義視の東軍から西軍への移り変わり、守護大名の参戦など一度に覚えるのは難しいでしょう。
確かに将軍の後継者問題も、原因の一つと考えられます。しかし単に後継者問題だけが原因とはいえず、応仁の乱のきっかけをシンプルに語るのは困難です。
単純に応仁の乱を勉強するだけであれば、シンプルに考えてもいいかもしれませんが、逆に理解するのが難しくなる場合もあります。日本史にはさまざまな見解があるので、テキストや問題集以外の情報も参考にするのをおすすめします。