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日明貿易・勘合貿易・朝貢貿易の違い|意味を簡単に解説

室町時代で行われた政策の一つとして、日明貿易が挙げられます。何となく名称は聞いたことがあるものの、朱印船貿易と何が異なるかわからない人もいるでしょう。

この記事では、日明貿易・勘合貿易・朝貢貿易の違いをわかりやすく解説します。高校日本史を勉強している、高校生や大学生の方はぜひ記事をチェックしてください。

 

日明貿易・勘合貿易・朝貢貿易

日明貿易・勘合貿易・朝貢貿易の仕組みをわかりやすく示した図

日明貿易は勘合貿易でもあり、朝貢貿易でもあったのが特徴です。そのため「日明貿易と勘合貿易、朝貢貿易は同じ」と捉える人もいるでしょう。

しかしすべてを同じと考えるのは、3つの貿易を理解したとはいえません。ここでは、3つの名前の意味と違いについて簡単に解説します。

日明貿易=日本と明の貿易

日明貿易とは、室町幕府が明(現在の中国)と行った貿易のことです。日明貿易が行われたときの将軍は、金閣でおなじみの足利義満でした。足利義持(4代目将軍)の時代に中止となった時期もありましたが、6代目将軍の足利義教時に再開します。

勘合符が用いられたのが特徴であり、勘合貿易とも呼ばれています。当時は倭寇(海賊)の影響により、貿易船と区別するために両国が勘合符を持ちました。

また両国は対等ではなく、あくまで明側は自国が上で日本が下という認識でした。足利義満もその条件をあえて飲み、朝貢貿易として成立します(理由は後述)。

結果的に日明貿易は、室町文化にも多大な影響を与えたのが特徴です。日本が戦国時代に突入した頃も、しばらくは貿易が継続されていました。

勘合貿易=勘合を使った貿易

勘合貿易は、勘合を使った貿易のことです。ただし世界的にも日本と明でしか使われておらず、基本的には日明貿易と同一視されます。

勘合は貿易の許可を目的としておらず、あくまで通行船であると相手に証明するための割符です。明側が発行し、両国で半分に割った勘合を持ち合いました。お互いに勘合を合わせ、一致したら取引ができる仕組みです。

とはいえ実際に勘合の名前が使われたのは、江戸時代に入ってからでした。当時から勘合と呼ばれていたわけではなく、後世の俗称であると押さえてください。

朝貢貿易=中国王朝の貿易形態

朝貢貿易とは、中国王朝に見られた貿易形態のことです。当時の中国には、中華思想という考え方がありました。中国を中心に置き、周辺諸国を夷狄(劣位)と考えます。中国の歴史に詳しい方は、次の言葉を聞いたことがあるでしょう。

  • 北狄(ほくてき)
  • 東夷(とうい)
  • 西戎(せいじゅう)
  • 南蛮(なんばん)

これらは四方の非漢民族を指しており、周辺諸国を下に見ていたことがわかります。交易においても明側が上の立場にいて、ほかの国は下という認識を前提にしようとしていたのです。

朝貢貿易自体は、明と日本以外でも行われていました。したがって日明貿易は朝貢貿易の形式で行われていたものの、両者を同一視する見方は誤りです。交易上の両国の立場について説明している用語だと押さえてください。

 

日明貿易が始まった流れ

日本と明との関係性を知るには、日本史と中国史の2つの観点から見ておくことが大切です。ここでは、勘合貿易が始まった理由について詳しく解説します。

明が朝貢貿易を広く行った

明は北元を滅ぼしたあと、周辺各国を次々に撃退していきました。さらにベトナムを一時的に支配し、東南アジアに自国の強さを示そうと考えます。

その戦略の一つとして挙げられるのが、朝貢貿易です。アジア諸国が明の皇帝に対して貢物(みつぎもの)を献上し、明が返礼品を渡します。あくまで明が上の立場、周辺諸国が下の立場と捉えたのが特徴です。

特に明が接近しようと考えていたのが、琉球王国(現在の沖縄県)でした。当時の琉球王国は独立した国であり、現在のように日本の一つではありません。明は琉球王国と朝貢貿易を繰り返し、いつしか他国との交易に関する重要地ともなりました。

倭寇の禁止を日本に求めた

明がアジア諸国と交易する中で、足かせとなっていたのが倭寇でした。倭寇は東アジアあたりで活動していた日本の海賊であり、貿易商人の側面も持っていました。あくまで「倭寇」と呼んでいたのは、明だったことも押さえてください。

そこで明側の使者が日本に来航し、倭寇の禁止を求めます。日本は九州探題に鎮圧するよう求め、明と正式に交流を始めました。このとき使者として送ったのが、僧侶の祖阿と博多商人の肥富です。

交流を始めるにあたり、明の皇帝(洪武帝)から「日本国王源道義」あての返書と暦が与えられます。明と貿易するには「国王」の称号を獲得しなければならず、「道義」は足利義満のことを指しています。

一方で足利義満からは、「日本国王臣源」と署名した文書を送りました。「臣源」は、明に対して下手に入る言葉だとイメージしておきましょう。「日本国王源道義」「日本国王臣源」は、間違いやすいので言葉の意味を正しく覚えることが大切です。

足利義満は明の品物に目をつけた

普通に考えれば、明と朝貢貿易をするのに嫌がる人は多いはずです。明がどうこうよりも、単純に相手から「あなたが下の立場だよ」と言われたら良い気はしないでしょう。実際に足利義持は立場に不満を覚え、日明貿易を中止しています

しかし足利義満は、当時まだ日本国に影響を与えるほどの財力を持っていませんでした。朝貢貿易の特徴は、運搬費などを明が「払ってあげる」という立場をとることです。

さらに民間の商人も取引が認められており、多くの輸入品を入手しました。こうした利益を優先させるべく、足利義満はあえて朝貢貿易を飲んだと考えられています。プライドを捨て、合理的な戦略に出た足利義満は、経営のスキルがあったともいえます。




足利義満にとっては、明との立場なんて二の次だったんだろうね

 




結果的に文化を発達させたわけだから、経済政策において優秀だったね!

 

日明貿易が日本に与えた影響

日明貿易により、日本からは銅・硫黄・刀剣・漆器などを輸出しました。特に日本からの輸出品では、銅に人気が集まります

明では銅が不足していたのと、日本の銅には銀が混じっていたのが主な理由です。明では銅に混じった銀を取り除く技術があったため、一石二鳥で銀もゲットできたわけです。

一方で明からは、生糸・絹織物・砂糖・陶磁器などを輸入します。明からの輸入品は、唐物と呼ばれており重宝されていました。併せて明銭(永楽通宝)も日本に入り、室町時代には貨幣が流通するようになります。

こうした貿易により、足利義満の頃には北山文化と呼ばれる華やかな文化が誕生しました。足利義政(8代目将軍)の時代では東山文化も生まれたことから、日明貿易は文化の発達に少なからず影響を与えたといえます。

 

日明貿易のまとめ

日明貿易は勘合貿易を採用したのが特徴であり、朝貢貿易の形式も採っていました。日明貿易と勘合貿易はまだ同一視してもよいですが、朝貢貿易はほかの貿易でも採られていたスタイルだったことは覚えておいてください。

当然、足利義満は明の下に入るのを積極的に望んだわけではありません。しかし財力を確保するために、あえて朝貢貿易のスタイルを認めていたといえます。日明貿易の流れを押さえていけば、当時の時代背景も覚えやすくなるでしょう。