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長篠の戦いとは?なぜ織田信長は勝てたのかをわかりやすく解説

高校日本史の中でも、有名な戦乱の一つとして挙げられるのが長篠の戦いです。日本史に詳しくない方でも、名前は聞いたことがあるでしょう。

この記事では、長篠の戦いにおいて織田信長がなぜ勝てたのかをわかりやすく解説します。日本史を勉強したい方は、ぜひ記事を最後まで読んでみてください。

 

長篠の戦いとは

長篠の戦いについてわかりやすく説明した図

長篠の戦いとは、織田・徳川連合軍が武田勝頼軍を打ち破った戦いです。1575年に戦乱が起こりましたが、織田信長の戦略が見事に功を奏し、相手を破ることに成功しました。ここでは、長篠の戦いが始まった経緯について解説します。

織田氏と武田氏の関係が悪化

桶狭間の戦いが終了したあと、織田氏と武田氏は良好な関係を築いていました。しかし織田信長と室町幕府との関係が悪化すると、武田氏とも少しずつこじれていきます。

1573年に入り、室町幕府の足利義昭(第15代将軍)はとうとう織田信長に対抗すべく、武田氏や浅井氏などの大名を呼び寄せました。なおこの時期に武田信玄が死亡したため、武田軍は戦いに参加するのを途中で諦めています。

幕府軍が意気揚々と織田軍に攻め入ったものの、織田信長に蹴散らされてしまいました。結果的に足利義昭は京都を追放され、室町幕府は滅んでしまいます

武田軍が室町幕府側に立ったことで、織田信長とは決裂しました。こうした出来事が、長篠の戦いへとつながっていくわけです。

なお桶狭間の戦いについては、以下の記事で詳しくまとめています。こちらの記事も参考にしつつ、時系列をしっかりと整理してください。

武田勝頼の快進撃が続く

長篠の戦いに入る前、武田勝頼は織田信長が京都へ入っている間に城を奪い続けました。野田城や二連木城を明け渡させるなど、終始優勢だったといえます。

その際に徳川家康と対峙したものの、武田軍は全く持って動じませんでした。一方で勝利し続けたことが、結果的に長篠の戦いで敗れてしまう一因にもなりました

 

長篠の戦いが開戦

武田勝頼は徳川家康から上手く逃れつつ、長篠城を攻略しようと考えました。そこから有名な長篠の戦いがスタートします。この戦乱の詳しい内容について解説していきます。

一つの言葉で耐える長篠城

武田軍が押し寄せていた頃、長篠城の守りはわずか500人程度しかいませんでした。苦しい状況の中、長篠城の兵は何とかして武田軍の猛攻を食い止めます。

明らかに不利な戦であるにもかかわらず、長篠城が持ちこたえたのは鳥居強右衛門のおかげでした。彼は夜中に城を抜け出し、織田軍と徳川軍に援軍を求めます。

翌日に援軍を向かわせることを取り決めた鳥居は、城で戦っている者に吉報を聞かせてあげようとすぐに戻りました。しかし武田軍に見つかり、捕まってしまいます。

武田勝頼は「長篠城の兵たちに『援軍は来ないから諦めろ』と伝えたら命を助ける」と鳥居に言います。そこで死を覚悟していた鳥居は、「数日後には援軍が来るぞ!」と長篠城に向かってエールを送りました。

武田勝頼の怒りを買った鳥居は、叫んだ瞬間に殺害されてしまいます。一方で鳥居の言葉で長篠城の兵は希望を取り戻し、見事に援軍到着まで持ちこたえました。

織田・徳川の援軍到着

数日間の侵攻を凌ぎきり、織田・徳川軍が長篠城の近くまでたどり着きました。長篠城の前には設楽原が広がっており、丘のアップダウンが激しいという特徴があります。

織田信長はその特徴を利用し、遠くからでは見えないところに数カ所の陣を作りました。さらに武田軍が援軍側に攻めてきたときの備えとして、馬を止めるための柵を設けます。

一方の武田軍の重鎮は、思いのほか長篠城攻略に苦戦していたため、一度撤退したほうがよいと提案します。しかし武田勝頼は、これまで勝利してきた勢いに乗りたいと思っており、攻め続けていました。この考えが、後に悲劇を生んでしまうわけです。

鉄砲隊の奇襲で長篠城を救出

織田・徳川軍は、ひとまず長篠城を救わないといけません。そこで鉄砲の扱いに長けた人物でチームを作り、夜明けに奇襲する作戦を取ります

基本的に軍が城を攻めるとき、長期間かかることを想定して、相手からの攻撃から守るために砦を作ります。武田軍は鳶ヶ巣山砦を中心に、数個の砦を作っていました。織田・徳川軍は、とりあえず砦を潰す策に出ます。

一方の武田軍は、設楽原に陣取っている織田・徳川軍が気になって仕方がありません。そこで兵を2つに分け、1つをそのまま長篠城攻略、もう1つの本隊を設楽原に進めました。しかしこの作戦を取らせることが、織田信長の狙いでした。

ひっそりと忍ばせた鉄砲隊は見事に機能し、武田軍の砦はすべて攻略されます。さらに長篠城の軍も一斉に攻め入り、設楽原へ向かった武田軍本隊が退却できないようにしました。

長篠の戦いの最終決戦

鉄砲隊が武田軍の砦を落とした頃、武田軍本隊は織田・徳川軍本隊と設楽原で対決します。ここで武田軍は大敗を喫してしまい、長篠の戦いは織田・徳川軍に軍配が上がりました

長篠の戦いにおいて、織田信長が採った戦法として鉄砲の三段撃ちが有名です。こちらは隊を三列に分け、一列目が撃ち終わったら後方に回り、弾を入れます。

その間に二列目が鉄砲を撃つという工程を繰り返すのがポイントです。しかし火縄銃の扱いの難しさから、三弾撃ちは「嘘」「作り話」ともいわれています

さまざまな説があるにせよ、長篠の戦いで最終的に武田軍は甚大な被害を出しました。一方で武田勝頼は生き延び、その後もさまざまな戦を起こしています。

 

織田信長はなぜ勝てたのか

織田信長が勝てた理由は、武田勝頼を砦から引っ張り出せた点が大きいとされています。さらに織田・徳川軍の奇襲により、設楽原へ向かった軍は退却が難しくなりました。

設楽原では、織田・徳川軍が厳戒態勢を敷いて待っています。その中に流れ込んでしまったら、鉄砲の扱いに長けていたかどうかにかかわらず、武田軍側が不利になります。

また織田信長が勝てた要因として、鳥居強右衛門の存在も無視できません。彼がいたから長篠城の兵士も耐え凌ぎ、武田勝頼を最終的に追い詰めることができました。




三弾撃ちどうこうよりも、戦略が全部凄かったんだね!




武田勝頼もきちんと退却していたら、被害を防げたかもね!

 

長篠の戦いのまとめ

長篠の戦いは、馬防柵や鉄砲の三段撃ちで有名な戦です。とはいえ実際は、これらを疑問視する声も少なくありません。

長篠の戦いに限らず、学校で習う日本史は少なからず「本当かどうか怪しい知識」が含まれています。ただしこれらはあくまで説の一つであり、決して嘘を習っているわけでもない点を押さえておきましょう。

武田勝頼に勝利した織田信長は、どんどん勢力を伸ばしていきました。一方の武田勝頼は、その後も戦に参加しているものの、最終的には追い詰められて自害してしまいます。戦を勉強するときは、前後の背景にも着目していくとよいでしょう。