鎌倉時代を代表する戦乱が「元寇(蒙古襲来)」です。当時の中国とモンゴルにあたる「元」が、日本に攻めてきた事件として知られています。
小学生でも習う内容であるため、元寇自体を知っている人は多いでしょう。しかし「なぜ起きたの?」と聞かれると、やや答えにくいと思います。
今回は、高校生や大学生に向けて元寇が起こった理由を詳しく取り上げます。なぜ日本が勝てたのかも踏まえながら解説しましょう。
元寇(蒙古襲来)とは
まずは元寇の基本的な内容について解説します。すでに知っている人も多いと思いますが、元が日本に攻めてきたのは一度だけではありません。
1274年と1281年の2回にわたって、日本を攻めたとされています。この2つの出来事を、元号から取って「文永の役」「弘安の役」と呼びます。
そのため元寇を語るうえでは、それぞれの戦乱を分けるのが望ましいです。記事内でも、2つの出来事に分けながら解説します。
「元」の成立
元寇の詳しい内容を見る前に、元の成り立ちからまとめます。日本史を勉強する際には、世界各国から見た視点にも注目することが大切です。
モンゴル民族の勢力拡大
モンゴル民族はもともと遊牧民でしたが、テムジンにより統一されます。テムジンは1206年にチンギス・ハンと名乗り、モンゴル帝国の王となりました。ちなみに「ハン」は、「王」を意味する言葉です。
チンギス・ハンからオゴタイ・ハンに位が譲られると、モンゴルは世界各国の支配に力を入れました。華北の金を滅ぼし、現在の朝鮮半島にあたる高麗も侵略します。さらにヨーロッパ地方にも進出し、ドイツ・ポーランド連合を破る活躍も見せました。
フビライ・ハンの擁立
やがてモンゴル王の位は、チンギス・ハンの孫であるフビライ・ハンに渡りました。フビライ・ハンの時代に北京へ移り、そこではじめて「元」を建国しました。
フビライ・ハンは、特に中国を中心とするアジアの支配に目を向けます。中国の南部を支配していた「南宋」を滅ぼしたあと、南宋と朝貢関係にあったビルマ・カンボジアなども征服します。
その勢いはどんどん増していき、やがて東アジアの侵略が目標になりました。東アジアの攻略を目指すとなれば、当然ながら障壁となるのは「日本」です。
したがって元寇が起きた理由は、元がアジア征服を目指していたことにあります。
元は、東アジア中に領土を広げようとしたんだね!
文永の役(1274年)
元と1回目のバトルになったのが、1274年に起こった文永の役です。元との国書のやり取りや戦乱の内容にも注目しながら解説しましょう。
文永の役が起きた背景
フビライ・ハンは、高麗を仲介して日本に国書を送りました。主な狙いは、日本を元の配下に置くことです。
しかし元に警戒心を持っていた北条時宗は、国書が送られても返答せずにスルーしました。当時の時宗は18歳であることから、いかに度胸があるかが分かりますね。
フビライ・ハンは1年後に再び国書を送るものの、北条時宗のスルーし続ける姿勢は変わりません。元は痺れを切らして使者に訪問させましたが、日本側は応じませんでした。
その間に北条時宗は、朝鮮半島に近い筑前(現:福岡)や肥前(現:佐賀)の御家人に守りを固めておくよう命令を出します。こうした厳重な守りもまた、勝利をつかみ取る一因となりました。
文永の役の内容
元は、高麗と合わせて3万近い兵をもって日本に襲撃しました。当時の元は集団戦法を得意としており、「てつはう」という爆弾を使うのも特徴でした。
一騎打ちが主流であった日本は、元の集団戦法に苦しめられます。一方で元軍のダメージも想像以上に大きく、元々侵略した国の兵も用いていたためか内部の争いも深刻だったとされています。
そこからの流れに関しては、説によってさまざまな見解があります。
教科書では元軍が船に引き上げたあと、突然の暴風雨で壊滅したとする教えが一般的です。しかしこの見解を否定する声もあり、単純に兵の強さが上回ったという見方も存在します。
どの見解を取るにせよ、文永の役において見事日本は元からの侵攻を防ぎ切りました。
弘安の役(1281年)
一度は引き下がったフビライ・ハンですが、日本侵略の夢は諦めていませんでした。戦乱後も日本に使者を送り、朝貢を求めました。2度目の戦乱となる弘安の役の背景も見ていきましょう。
日本側の戦乱への備え
北条時宗は文永の役で勝利したあとも、元がいつ襲ってきてもいいように備えていました。特に博多湾には異国警固番役を置くとともに、防塁(外敵に備えるとりで)も設置します。特に防塁は、約20kmに及ぶ規模だったそうです。
また長門探題(長門国の守護)にも守りの指示を送り、万全な体制で元を迎え撃ちました。関東の鎌倉幕府が西日本側の守護も統制しているため、幕府の影響力が日本全体に与えていることを示唆していますね。
弘安の役の内容
弘安の役において元は、文永の役よりもさらに強大な軍を率いて日本を攻めました。その数は、何と40万人にも及ぶとする説もあります。
元軍は博多湾からの上陸を試みましたが、大規模な防塁が設置されていたことで断念します。やがて志賀島に上陸するものの、日本軍の怒涛の攻撃により撃退しました。
その後も日本は各地の戦乱で勝利を重ね、元軍の勢力を削ぎ続けます。さらに暴風雨が発生したことで、元軍の損害も大きくなりました。
大軍を率いて臨んだ日本侵攻でしたが、結果的に4分の3の兵力を失う形で元が敗れます。日本としては、2度にわたる侵略の危機を見事に乗り越えたわけです。
元寇後の日本
元寇を勉強するうえでは、襲来後の日本の変化も押さえないといけません。最後に日本の政治において、どのような変化および問題点が生じたかを解説しましょう。
鎮西探題を博多に置いた
元は多大な損害を被ったものの、幕府側は警戒心を解いていませんでした。そのため鎮西探題を博多に置くことで、九州の守りを依然として固めます。鎮西探題には、北条氏が任命されました。
これを機に、九州における政治の中枢も太宰府から博多に変更します。しかしこの頃から御家人らの合議で物事を決める執権政治の形が崩れ、得宗専制政治が敷かれるようになりました。
執権政治や得宗専制政治については、以下の記事で詳しくまとめています。まだ確認していない場合は、こちらも併せて参考にしてください。
「御恩」「奉公」が崩れる
鎌倉時代は、幕府と御家人(武士)の主従関係により成り立っていました。御家人が奉公として幕府のために働き、幕府が御恩として褒美を与える政治体制でした。
しかし元寇は相手国の土地を奪ったわけではなく、あくまで日本を守るための戦いです。元には勝利したものの、幕府は新たに土地や金銭をゲットしたわけではありません。
要するに命をかけて御家人に対し、幕府は相応の褒美を渡せない状態となったわけです。元々日本経済が落ち目だったこともあり、御家人側は不満を募らせます。
こうした不満がやがて大きくなり、鎌倉幕府は崩壊の道へと進んでしまいました。元寇は日本軍の強さを証明できた一方で、鎌倉時代の政治の欠点も浮き彫りになった出来事といえるでしょう。
元寇に関するまとめ
今回の記事では、日本史でも極めて有名な「元寇」について紹介しました。
まずは文永の役と弘安の役の2種類がある点、北条時宗が講じた対策も押さえてください。加えて当時の元側の歴史も把握しておくと、元寇の流れをより理解しやすくなります。
元寇は、鎌倉時代にとって大きな転換期となったきっかけの一つです。「御恩」「奉公」が崩壊した事実も把握しつつ、今後の日本がどう変わったかを捉えられるようにしましょう。