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明応の政変とは?将軍の後継者問題についてわかりやすく解説

後継者争いを皮切りに応仁の乱が起こった室町幕府ですが、さらに明応の政変が発生します。こちらも応仁の乱と同じく、室町幕府の将軍における後継者争いの一つです。

この記事では、明応の政変についてわかりやすく解説します。日本史を勉強している方は、ぜひ記事を最後まで読んでみてください。

 

明応の政変とは

明応の政変についてわかりやすく説明した図

明応の政変とは、室町幕府の10代目将軍を廃止し、11代目将軍が擁立した事件です。政治的な争いから、最終的には戦乱へと発展しました。

学者によっては、明応の政変を戦国時代のはじまりと捉える人もいます。まずは明応の政変が、どのような事件かを詳しくまとめます。

足利義稙将軍の登場

応仁の乱が終結し、室町幕府の9代目将軍に足利義尚が選ばれました。しかし義尚は24歳という若さで亡くなり、足利義稙が次の将軍の候補となります

足利義稙は、足利義視(8代目将軍の義政の弟)の息子であり、日野富子(義政の妻)からも絶大な支持を得ました。この動きについて、足利義政や細川政元(管領)は良く思いませんでした

その理由は足利義稙を将軍にすると、お互いに距離を置いていた足利義視の権力が強くなってしまうためです。細川政元も足利義政の側近に近い立場なので、同様の感想を抱くのは自然でしょう。

しかし足利義政が亡くなり、正式に足利義稙が10代目将軍に任命されます。この時期になると、日野富子も積極的に政治に関わりました。なお応仁の乱に関しては、以下の記事でも詳しく解説しています。

日野富子との確執

足利義稙を一生懸命に推した日野富子でしたが、義尚の住んでいた居宅を義澄に譲ろうとしました。足利義澄とは、後に11代目将軍に選ばれる人物であり、義政の甥にあたります。

せっかく足利義稙が将軍になったにもかかわらず、前の将軍の居宅を義澄に譲るのは冒とく行為であると言われても仕方ないでしょう。結果的に日野富子は、足利義視や義稙とも疎遠となってしまいました。この仲違いが、明応の政変にもつながります。

細川政元の反発

足利義稙が将軍になることを良く思わなかった細川政元は、細川勝元の子です。細川勝元は、応仁の乱で東軍にいた一人でした。義稙の父である足利義視は、応仁の乱では最終的に西軍側だったため、敵対するのではと人々も恐れます。

足利義稙は義尚がやり残した遠征(六角氏の征伐)を遂げようとしたものの、細川政元から協力が得られませんでした。その理由は、同じ管領である畠山氏の復活を防ぐためです。

畠山氏の力が大きいことから、父の細川勝元は跡継ぎ問題に介入した過去がありました。争いによって権力を分散させ、力を弱めようとしたのが狙いです。

しかし細川氏の目的には目を向けず、義稙は遠征を成し遂げるべく畠山氏の結束を強めてしまいます。畠山氏を目の上のたんこぶと思っていた政元は、当然ながら良い気はしません。そこで政元は義稙と距離を置いている日野富子にも近づき、水面下で反乱の準備を進めます

 

細川政元が兵を挙げた

明応の政変は、細川政元が兵を挙げたことで本格的な戦乱へとつながりました。高校日本史レベルではマニアックすぎる内容ですが、参考程度に読んでみてください。

足利義稙の居宅を襲撃した

細川政元は、足利義稙の居宅を襲撃しました。その際には足利義澄を最初に保護し、慈照寺などの有名な寺院を破壊していきます。細川政元の襲撃に関しては、日野富子が指揮をとったとも言われています。

襲撃において、細川政元は「義稙を廃止し、義澄を擁立させるよう」要求しました。一方で足利義稙側は、仲間といえるのは畠山氏くらいしかいませんでした。畠山氏は有力な大名の一つであり、兵力も比較的多かったものの、頼れる味方は少なかったといえます。

足利義稙が降伏した

畠山氏の兵力が大きかったといえ、細川政元は多くの大名を味方につけ、最終的には4万以上の兵力を誇っていました。足利義稙と畠山政長は正覚寺に立てこもっていたものの、限界を迎えてとうとう守り切れませんでした。

畠山氏のトップであった畠山政長は、守りを突破されたあと自ら命を絶ってしまいます。足利義稙は降伏し、権力の位を譲り、京都の龍安寺に押し込められました。

しかし約13年間の逃亡生活を経て、足利義稙は後に再び将軍となっています。11代目将軍の義澄の死後に再度将軍となりましたが、12代目将軍と位置づけるのではなく、10代目将軍としてまとめられるのが一般的です。

 

明応の政変のポイント

明応の政変は、日本史の中でも比較的地味な事件と認識している人もいるでしょう。しかし室町時代から戦国時代へと移り変わる中で、重要なターニングポイントともいえる事件です。

最後に明応の政変が、後の社会にどう影響を与えたかを解説します。背景を押さえるうえで重要なポイントとなるので、しっかりと内容を押さえてください。

室町幕府の権力が衰えた

明応の政変で細川政元が勝利したことにより、幕府権力は細川氏が握るようになりました。室町幕府の権威は依然として残っていたという見方もありますが、現代の日本史ではほとんど語られていないのも事実です。

特に室町幕府の重要な機関の一つとして、奉公衆がありました。将軍を守る直轄軍でしたが、明応の政変が発生したあとに奉公衆は事実上崩壊してしまいます

各地の大名が力を持った

一度追い出された足利義稙ですが、着々と反撃の準備を進めていました。畠山氏・上杉氏・朝倉氏など、戦国時代で有名になる大名が、義稙に味方したのがポイントです。

上杉氏は越後(現在の新潟)、朝倉氏は越前(現在の福井県)を拠点としています。畠山氏は能登(現在の石川、富山)であるため、北陸地方は全体的に義稙の味方でした

細川政元は義稙討伐の軍を送りますが、あっけなく敗れてしまいます。こうした経緯もあり、室町幕府は各地の大名たちを黙らせる術を見い出せませんでした。




上杉謙信とか朝倉景隆とか、有名な歴史人物が出てくる地方だね!

下剋上が次々と見られた

明応の政変は、全国的に下剋上を生み出したうえでも無視できない事件です。一度は室町幕府の権威を手にした細川政元でしたが、細川氏の内部争いにより殺害されてしまいます。

細川氏が崩壊したあとは、室町幕府の権威は家臣の三好長慶へと渡ります。しかし三好政権が弱体した隙を狙われ、長慶の家臣である松永久秀が権力を握るようになりました。このように室町幕府の権威は、家臣によって奪われる状態が続きます

さらに1566年には、松永久秀が13代目将軍の足利義輝(よしてる)を殺害する事件が起こりました。身分が下の者が、上の者の位を実力で奪っていったわけです。

松永久秀は、最終的に京都へ入ってきた織田信長の下につきます。こうして室町幕府の権力が弱体化し、戦国時代へと突入しました。

 

明応の政変のまとめ

明応の政変は、戦国時代に突入するきっかけの一つとなった事件と押さえてください。特にチェックしたいポイントは、室町幕府の権力が弱くなり、社会的に下剋上が広まったことです。

高校日本史レベルであれば、明応の政変における戦乱の内容まで覚える必要はありません。ただし戦国時代への転換期として、明応の政変が起こった頃の背景を理解できるようにしましょう。