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建武の新政が2年で終わった理由!武士の不満はなぜ起きた?

鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政という新たな政治を展開しました。しかし建武の新政は、たったの2年で終わってしまいます。その理由は、武士の不満が原因でした。

この記事では、建武の新政がたったの2年で終わった理由について紹介します。大学受験や公務員試験で日本史を勉強される方は、時代背景と併せて押さえてください。

 

建武の新政とは

建武の新政に関連する機関等のイメージを簡潔に説明した図

建武の新政とは、後醍醐天皇が行った天皇中心とする政治です。鎌倉幕府が権力を握っていたころは、天皇ではなく武士が政治の中心にいました。

天皇も武士中心の政治に反対していましたが、承久の乱に敗れてから力が衰えてしまいます。おまけに六波羅探題が天皇の動きを監視していたため、目立った行動ができなくなりました。

しかし鎌倉時代後期に武士への不満が強まると、討幕軍が幕府を滅ぼします。討幕派の中心人物でもあった後醍醐天皇は、自らが政治の実権を握りました

天皇の綸旨に権力を集中

建武の新政は天皇に権限を持たせるため、天皇の命令である綸旨(りんじ)に権力を集中させました。特に後醍醐天皇は、土地の所有権を綸旨だけで決めると考えたわけです。

つまり土地に関する決め事は、すべて後醍醐天皇に委ねられる形となります。そうすれば、当然ながら公家(貴族)や武士たちは後醍醐天皇にすり寄ります。しかし綸旨に権力を集中させたことが、たったの2年で終わった原因の一つでもありました。

国司・守護を地方に設置

鎌倉時代に知行国制度がスタートすると、知行国主という有力貴族が国を支配するようになります。知行国主は国司を推薦する役割もあり、高い位を持っていました。

このころは国司の権力が弱まりましたが、後醍醐天皇は再び国司中心の政治に戻します。朝廷が任命する国司を地方行政に就かせ、全国に天皇の権力が及ぶようにします。

一方で国司と一緒に、守護も地方の支配を担っていました。守護も変わらず警察としての力はあったので、建武の新政では軍事の統率も任せます。しかし国司と守護を一緒に置くというやり方が、業務に混乱が生じた原因でもありました。

陸奥将軍府・鎌倉将軍府の設置

後醍醐天皇は、京都(中央)だけではなく地方政治にも力を入れました。関東地方には鎌倉将軍府、東北地方(奥羽)には陸奥将軍府を置き、日本全体を支配しようとします。

ちなみに関東には成良親王を派遣し、足利直義が親王の補佐を担当しました。奥羽は義良(のりよし)親王が派遣され、補佐を務めたのは北畠顕家です。これらの人物名は、押さえたほうがよいでしょう。

記録所・雑訴決断所を中央に設置

中央である京都には、記録所と雑訴決断所が置かれました。記録所は、国の政治全般を担当する機関です。現代でいうと、国家公務員の一般職に近い仕事といえます。

雑訴決断所は、基本的に現代の裁判所と同じ役割を持ちます。主に所領(土地)の所有権の問題を裁いていたのがポイントです。

鎌倉時代の頃は、所領の相続において「分割相続」を採用していました。一方で経済悪化もあり、だんだんと所領を分けるのが難しくなります。その中でどちらが相続する権限があるかを巡り、訴訟に発展するケースが多々ありました。

こういった問題を巡り、雑訴決断所が所領によるトラブルを扱うようになります。しかし雑訴決断所は、建武の新政とともに短期間で消滅しました。

 

建武の新政が2年で終わった理由

建武の新政は、鎌倉幕府の政治を批判する形で誕生しました。多くの人が賛同すると思われましたが、ふたを開けてみたらたったの2年で終わりを迎えます。建武の新政が、なぜ短命に終わったのかをまとめます。

後醍醐天皇一人では限界があった

建武の新政がたったの2年で終わった理由の一つが、ワンオペ(一人での仕事)で対応したためです。先程も説明したとおり、天皇は公家や武士における土地の所有権を綸旨だけで決めるようにしました。

多くの人々は、「私たちに土地をください!」とわざわざ京都まで出向いてお願いします。中には、不当に土地を得ようと考える悪者もいました。

後醍醐天皇がたとえ優秀でも、一人で国の仕事を担うのは無理があります。結果的に仕事が進まなくなり、人々の不信感が高まってしまいました。

公家と武士の狙いが違った

鎌倉時代が崩壊したとはいえ、多くの有力な武士がまだ残り続けています。公家と武士がいる当時の日本では、彼らが連携して政策を維持できるかも重要でした。

しかし公家と武士は、今後の日本を動かすうえでの考え方に違いがありました。公家は、伝統を重視して平安時代の延喜・天暦の治に戻そうとします。一方で武士は、武家で世の中を治めたいと考えていました。

そもそも討幕軍が一致団結したのは、得宗家による鎌倉幕府の政治があまりにも酷いと感じたからでした。共通の敵が滅んだ今、新たに方向性が分かれていったのです。

理念が時代に合わなかった

建武の新政が上手くいかなかった原因として、後醍醐天皇の理念が時代に合わなかった点も挙げられます。武士が政治の中心にいた鎌倉時代が終わった直後、いきなり公家中心の政治に切り替えるのは無理がありました。

おまけに後醍醐天皇が目指していたのは、平安時代の延喜・天暦の治です。鎌倉時代で新たな政治が誕生したにもかかわらず、時代に逆行していく動きは後醍醐天皇の勢いも止めてしまいました。

 

建武の新政まとめ

建武の新政は、鎌倉幕府を否定していた後醍醐天皇による新たな政治です。天皇中心の政治体制に戻し、鎌倉将軍府や陸奥将軍府、雑訴決断所といった機関を整備しました。

しかし鎌倉時代の直後は武士が政治の中心にいたため、建武の新政を進めるのは困難を極めます。最終的に建武の新政は長続きせず、たった2年という短い期間で終了しました。

天皇中心の政治を敷いたのは、少なからず武士の不満を招いてしまいます。鎌倉幕府滅亡後も、天皇家と武士の方向性が全く違っていたのが建武の新政が失敗した原因といえます。