日本史を代表する戦乱の一つとして挙げられるのが、川中島の戦いです。武田信玄と上杉謙信が、一騎打ちした戦いであると覚えている人もいるでしょう。
この記事では、川中島の戦いについて詳しく解説します。高校日本史ではそこまで深く学習しませんが、歴史好きの方はぜひ記事を読んでみてください。
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川中島の戦いとは
川中島の戦いとは、武田信玄や上杉謙信(長尾景虎)が争った有名な戦乱です。武田信玄は信濃(現在の長野県)を拠点にしていましたが、領土拡大を狙っていました。そこで目をつけたのは、越後(現在の新潟県)を牛耳っていた上杉謙信です。
当該戦乱はなかなか決着がつかず、5回(見方によっては6回)にわたって戦いが繰り広げられます。結果も「引き分け(意見は分かれるが)」と見るのが濃厚であり、力のある者同士の争いとして高い人気を誇ります。
川中島の戦いの経過
川中島の戦いは、1553年〜1564年と約30年にもわたって繰り広げられました。ここでは高校生でもわかりやすく、それぞれの戦いについて解説していきます。
実際は時代ごとに人物名が細かく変わりますが、ここでは武田信玄・上杉謙信などと名前を統一しましょう。また研究者によっては第六次の戦いがあるという見方もありますが、ここでは5つの戦まで取り上げます。
第一次:布施の戦い
まず武田信玄は、1553年に北信濃(現在の長野県北部)を拠点としていた村上義清を襲撃しました。村上氏は1548年に武田軍が襲来したときは、見事に追っ払った実績があります。
しかし真田幸村の祖父にあたる真田幸綱が武田氏の仲間になると、一気に関係は劣勢となりました。その最中、1553年の布施の戦いが起こります。
力を落としていた村上軍は太刀打ちできず、越後の上杉氏に助けを求めました。上杉氏は5,000騎ほどの援軍をよこし、一時態勢を整えることに成功します。
一度退散した武田軍は再び襲来し、今度は上杉謙信も自ら迎えました。そこで武田軍を打ち破り、上杉軍側が見事第一次の戦いで勝利を収めます。武田軍は城に閉じこもり、上杉軍が帰還するまで大人しくしていたようです。
しかし敗れた武田信玄にも、布施の戦いで長野の豪族たちを従えることに成功しました。まさに実りある戦だったといえます。
第二次:犀川の戦い
武田信玄は上杉謙信を打ち破るべく、相模(現在の神奈川県)の後北条氏、駿河国(現在の静岡県)の今川氏と同盟を結びました。さらに上杉氏の領域でもあった善光寺の城主が、上杉謙信を裏切って武田信玄側に付きます。
結果的に善光寺を武田軍に奪われた形となったため、取り返すべく上杉軍が襲来したのが犀川(さいがわ)の戦いです。この戦いは、犀川(長野県内を通る川)を挟んだ両軍の位置関係が肝でした。

上杉軍が武田信玄のいる本陣へ行くには、犀川を渡らないといけません。しかし犀川の前には旭山城があり、そこにも軍を3,000騎ほど置いていました。
つまり旭山城を無視して犀川に向かうと、川を挟んで前方と後方から挟み撃ちされる恐れがあったのです。そこで上杉謙信は旭山城の正面に葛山城を築き、挟み撃ちできない状態にしました。

武田軍も上杉軍へ立ち向かい、犀川を挟んでお互いに争います。この戦いは、記録によると200日以上も続いたそうです。
お互いに万策尽き果てていた頃、両者の間で一時和解が成立します。この和解においては、今川義元が仲介しました。
第三次:上野原の戦い
一時は和解が成立していた両者でしたが、武田信玄は侵略の手を緩めることはありません。次々と城を落としていき、上杉謙信の元に歩みを進めていました。その際に葛山城は、武田軍によって陥落されてしまいます。
武田軍の行動に怒った上杉謙信は、長野県の盆地に兵を挙げます。まず上杉軍は、武田信玄に味方した市河藤若を襲いました。
上杉軍は武田軍を侵攻する中で、1557年8月中旬に上野原の戦いで対峙します。とはいえ、お互いが激しく争うことはありませんでした。
結果的に両者とも大きな犠牲を出さず、上杉謙信は兵を引き上げます。大きな動きがなく資料も乏しいところが多い点から、第二次の犀川の戦いや第四次の八幡原の戦いと比べると少し影が薄いのが特徴です。
第四次:八幡原の戦い
八幡原の戦いは、川中島の戦いの中で最も大きな戦乱へと発展しました。ただし資料はあまりなく、基本的には軍記物語で語られています。
ここで押さえてほしいのが、北条氏康と山本勘助が積極的に関与した点です。皆さんも名前だけは聞いたことがあると思いますが、北条氏康は武田信玄と援助を要請し合う仲になり、山本勘助は武田信玄の参謀となりました。
武田信玄の啄木鳥戦法
上杉謙信は善光寺に到着し、侵略を続ける武田信玄を止めようとします。善光寺に兵の残しつつ、上杉謙信は自ら妻女山(長野市にある山)へ兵を進めました。武田信玄は妻女山の近くにある海津城(松代城)へ入り、お互いが睨み合います。
上杉謙信の強さを知る武田信玄は、慎重に作戦を考えていました。そこで山本勘助は「啄木鳥(キツツキ)戦法」という作戦を思いつきます。

キツツキはくちばしで木を突き、驚いて外に出た虫を捕食する鳥です。この特徴になぞらえて部隊を複数に分け、一つが上杉謙信のいる妻女山を襲います。そこで妻女山から出てきた上杉軍を、待ち伏せしていた軍で攻撃するといった方法を採りました。
上杉謙信の先読み
武田軍は啄木鳥戦法を開始すべく、部隊の一つを妻女山へ送りました。しかし上杉謙信は、海津城からいつもより多く炊事の煙が立ち上がっているのを発見しました。
炊事の煙が上がるということは、夜中の奇襲に備えて腹ごしらえをしている可能性が高いといえます。つまり上杉謙信は、武田軍が奇襲を仕掛けてくることを察知しました。
そこで武田軍に気づかれないように、ひっそりと兵を妻女山から下山させます。夜中に千曲川(現在の信濃川)を渡り、八幡原で待ち伏せていた武田軍の元へ向かいます。
当時は霧が濃かったらしいですが、少しずつ晴れていくといるはずのない上杉軍が目の前に現れました。武田軍は、上杉軍がこつ然と姿を現したことに動揺を隠せなかったようです。
八幡原の戦いが開始
完全に武田信玄の裏をかいた上杉謙信は、一気に本陣を攻めました。勢いを防ぎ切れなかった武田信玄は、弟の武田信繁や山本勘助を討ち死にさせてしまいます。まさに絶体絶命の状態でした。
一方で妻女山へ向かっていた別部隊は、誰もいないことに異変を感じ、すぐに八幡原へ向かいました。そこで武田本陣と別部隊で上杉軍を挟み撃ちにし、何とか上杉軍を蹴散らします。
記録によると、上杉軍は3,000人・武田軍は4,000人の死者を出したそうです。結果的に前半は武田軍がボロボロになったものの、別部隊の到着で形勢逆転を果たしました。一方で武田軍側の犠牲も多く、お互いが大きな傷を抱える戦乱となります。
第五次:塩崎の対陣
川中島の戦いで最後に争われたのが、塩崎の対陣です。武田信玄は飛騨国(岐阜県の一部)に侵入しようとしましたが、上杉謙信はそれを防ごうとしました。
しかし武田信玄は直接対決を避けたいと考えており、塩崎城に陣取るだけで大きな争いには発展しませんでした。なお現代では、川中島の戦いは6回目の戦いがあったといわれています。とはいえさまざまな見解があるため、とりあえず川中島の戦いは5〜6回争われたと考えておきましょう。
なおどうしても歴史が苦手な方は、ゲームから馴染むといった手段もあります。筆者もこちらのゲームにはかなりハマったので、歴史に苦手意識を持っている方におすすめです。
川中島の戦いのまとめ
川中島の戦いは、歴史好きの中にはファンも多い出来事の一つです。ただし中学や高校の日本史ではあまり取り上げられないので、詳しい内容を知らない方もいるでしょう。戦国時代を代表する戦の一つであるため、日本史に興味を持った方は自分でも調べてみるのをおすすめします。