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承久の乱を簡単に解説|結果はどちらが勝ったのかを押さえよう

鎌倉時代に発生した重要な事件の一つに、承久の乱があります。元々武家政権の力が強かった鎌倉時代ですが、この事件を境に大きな権力を持つようになりました。

この記事では、承久の乱を高校生にも簡単に理解できるよう解説します。大学受験などで日本史を勉強されている方は、ぜひ今回の解説を参考にしてください。

 

承久の乱とは

承久の乱のイメージを簡単に解説している図

承久の乱とは、後鳥羽上皇が北条義時を討つために起こした戦乱のことです。鎌倉幕府が成立してから3年後に発生し、結果的に北条氏が台頭するきっかけとなります。

また朝廷に仕えていた武士も幕府軍となり、鎌倉幕府は大きな権力を持ちました。これまでの貴族社会から武家社会へと、完全に移り変わる転換期となります。

鎌倉時代における社会的な背景

幕府で有名な鎌倉時代は、武家政権が権力を握った時代でした。平安時代後期から武士が少しずつ力をつけはじめ、源氏が平氏を滅ぼしたことでその力はより大きくなります。

中でもトップの権力を握っていた源頼朝は、現在の鎌倉市(神奈川県)に拠点を置いて政治を行います。そこから源氏と北条氏によって、幕府は約140年くらい続きました。源氏と平氏の争いについては、以下の記事で詳しく解説しています。

公家と武家の違い

現代から想像するのは難しいですが、日本史の勉強では公家と武家の違いをしっかりと押さえる必要があります。公家とは、朝廷に仕える人のことです。とりあえずは、貴族の家柄と置き換えて覚えても問題ありません。

公家は政治を中心に行いつつ、和歌や音楽といった文化活動を重んじていました。皆さんも、貴族が蹴鞠(けまり)で楽しんでいる絵を見たことがあるはずです。

一方で武家とは、武士の家柄(一族)のことです。武士は元々朝廷の警備をするのが仕事でしたが、地方に流れると各地で力を蓄えていきました。鎌倉時代の中心に立った源氏も出自こそ天皇家でしたが、後に武士の一族として力を持ちます。

少しややこしいのですが、すべての武士が武家政権側、つまり鎌倉幕府の家来だったわけではありません。特に後鳥羽上皇は、北面の武士や西面の武士として近畿地方の武士を味方にしていました。

そのため承久の乱を貴族と武士の戦いと考えるのは、個人的には誤りと考えています。どちらかというと、朝廷と幕府の戦いが正しい解釈となるでしょう。

 

 

承久の乱のきっかけ

1221年に起こった承久の乱ですが、その要因は一つに絞るのが困難です。ここでは出来事を簡単に紹介するので、流れをしっかりと押さえてください。

地頭の荘園支配に危機感を抱く

鎌倉時代に入り、武家政権の力はどんどん拡大していきました。公家は元々「荘園」という領地を持っていましたが、鎌倉幕府は地頭を置いて年貢の徴収をします

領主は地頭があまりにも横暴であると、幕府に対して裁判も起こしていました。裁判自体は極めて公平だったものの、すでに強力な権力を持っていた地頭を止める術もなかったのです。

公家は大事な荘園が侵害されるだけではなく、全国的に力を拡大させていく武家に危機感を覚えます。そこで横暴な幕府を倒さないといけないという風潮が広がりました。

親幕派の九条兼実の失脚

元々朝廷で権力を持っていたのは、九条兼実(かねざね)でした。彼は源頼朝とも関係が良く、幕府と程良い距離感で接していました。

しかし幕府反対派の源通親(みちちか)は、自分と真反対の思想を持っている九条兼実を失脚させてしまいます。源通親は元々源頼朝からも高い評価を受けていた人物でしたが、不安定な社会情勢の中で後白河法皇(公家側)に偏った過去があります。

九条兼実失脚後は、源通親がしばらくは上位に立ちます。しかし後鳥羽上皇が代わって権力を握るようになり、自分の思うがままに政治を進めていきました。

後鳥羽上皇と鎌倉幕府

そもそも後鳥羽上皇は、鎌倉幕府自体を敬遠していたわけではありません。むしろ初期のほうは、鎌倉幕府と近い距離間で接していました。

まず後鳥羽上皇は、鎌倉幕府3代目将軍である源実朝に接近します。官位を与えるだけではなく、自身の従姉妹を源実朝と結婚させるなどと手厚くもてなしていました。

源実朝も、後鳥羽上皇とは良好な関係を築いていたようです。後鳥羽上皇が鎌倉幕府の内部に影響を与えるための策だったと考えられていますが、ひとまずは朝廷と幕府の関係も安定していました。

源実朝の暗殺

関係が安定していた朝廷と幕府でしたが、ここで源実朝が公暁(くぎょう)に暗殺されてしまいます。公暁は二代目将軍の源頼家の子であり、1219年に事件は発生しました。

後鳥羽上皇は源実朝をもてなすにあたって、学問の先生として源中章を送りました。しかし公暁は実朝と仲章の両方を殺害してしまい、朝廷と幕府のパイプを担っていた人物がほぼいなくなります。

源実朝が亡くなってからは北条氏が幕府の中心にいましたが、彼らの時代になると朝廷との関係は一層悪化しました。やがて後鳥羽上皇は北条義時を討つように命令を下し、承久の乱がはじまりました。

 

承久の乱の結果

朝廷と幕府の二大勢力が争う承久の乱ですが、1カ月もかからずに幕府が圧勝します。後鳥羽上皇は、以前からあった北面の武士に加えて西面の武士を編成していました。しかし招集しても人が集まらず、むしろ幕府のほうに流れていきます。

人数差が歴然としているだけではなく、実戦経験の違いもあるので朝廷側に勝ち目はありません。北条義時が短期決戦を狙っていたのもあり、あっという間に朝廷側が敗れてしまいました。ここでは承久の乱が終わったあと、政治がどのように変わったのかを解説します。

後鳥羽上皇らは流罪となる

承久の乱を起こした張本人である後鳥羽上皇は、同じ皇族の順徳上皇や土御門上皇とともに流罪となりました。期末試験用に、それぞれどこに流されたかも覚えましょう。

  • 後鳥羽上皇:隠岐島
  • 順徳上皇:佐渡島
  • 土御門上皇:土佐(その後は阿波)

天皇には後鳥羽上皇の血縁を避け、後堀河天皇(後鳥羽上皇の兄の子)を擁立しました。さらに計画の中心人物である貴族も死刑となります。こうした処罰が大々的に下されたことで、朝廷の権力は著しく衰弱しました。

六波羅探題を置いた

承久の乱が終結したあと、鎌倉幕府は新たな役職として六波羅探題を置きます。六波羅探題の役割は京の警備に加え、朝廷に不穏な動きがないかを監視することです。四六時中監視することで、幕府は同様の反乱が起こらないように対処していました。

はじめに六波羅探題として仕事をしていたのは、北条泰時と北条時房です。その後も執権が担当するようになり、鎌倉幕府の中でも重要な役職になりました。

六波羅探題が設立されたあと、朝廷は幕府の圧力に屈してしまいます。朝廷内部で騒動が起こっても、鎮圧するには幕府に助けてもらう状態が続きました。

土地や武士を没収した

人が強大な力を持つ要因となるのは、安定した土地を持つことです。そこで幕府は朝廷から力を奪うべく、土地や武士を没収します。朝廷には西面の武士が設けられていましたが、彼らは幕府の軍となりました。

また3000カ所にも及ぶ所領を手に入れ、これらを功績の高かった御家人に地頭職として与えます。地頭職とは、土地の管理や徴税の権利のことです。

このように承久の乱のあと、新たに任命された地頭は新補地頭と呼ばれています。当初は先例に従う本補地頭と分けられていましたが、いつしか承久の乱後の地頭はすべて新補地頭に統一されました。なお新補地頭は新補率法といって、給与の計算方法も改められます。

さらに北条義時は守護に大田文を作るように命じ、田数を記録して全国の土地の支配に力を入れました。こうして鎌倉幕府は、全国的に強い影響を与える存在となります。

 

 

承久の乱は鎌倉時代の転換期

鎌倉時代は、もとより武家政権が台頭する社会ではありました。しかし初期の頃は朝廷もそれなりの権力があり、やがて承久の乱として両者は対立します

この争いが終わったあとは、朝廷の権力が弱くなって武家政権が世の中を統治するようになります。したがって承久の乱は、鎌倉時代において一つの転換期といえるでしょう。

ここから鎌倉幕府は、源氏ではなく北条氏が中心になって政治を展開します。しかし得宗(北条氏の本家)が権力を握ると、幕府は少しずつ崩壊に向かいます。このように鎌倉時代は、いくつかの転換期があることをしっかりと覚えてください。