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半済令はなぜ出されたの?室町幕府の守護の権限が強くなった理由

室町時代の初期には、応安の半済令という制度が作られました。半済令自体は聞いたことがあるかもしれませんが、制度の内容をあまり理解できていない方もいるでしょう。

この記事ではなぜ半済令が出されたかについて、室町時代の守護の特徴にも触れながら解説します。高校日本史を勉強されている方は、ぜひ参考にしてください。

 

半済令はなぜ出された?

半済令とは、守護に荘園の年貢の半分を徴収するのを認めた制度です。当時は南北朝時代の動乱により、室町幕府は多額の軍事資金を必要としていました。

とはいえ普通に資金を集めようとしても、財源はどうしても限界を迎えてしまいます。そこで半済令を出し、荘園や公領の年貢を軍事資金に充てました。

元々は戦乱が激しかった近江・美濃・尾張の3つに限定されており、1年のみの期限付きでした。しかし観応の擾乱の影響により、全国的に半済令が出されるようになります。加えて1年限りといった制限も撤廃され、期限なしで効果が生じました。

観応の擾乱による影響

鎌倉時代から室町時代へ移るまで、後醍醐天皇が建武の新政で国の中心に立とうと考えていました。しかし結果は失敗に終わり、後醍醐天皇は京都から吉野へ逃げるように移ります。

そのため北朝(京都)では足利尊氏が、南朝(吉野)では後醍醐天皇が実権を握る南北朝時代が訪れました。南朝は早くも勢力を落とすものの、北朝側は足利尊氏派と足利直義派の内部分裂が起こってしまいます。

この内部分裂が、全国的な戦乱である観応の擾乱へと発展したわけです。観応の擾乱については、以下の記事でも詳しく解説しているので併せて読んでみてください。

室町幕府は守護の権力を強化した

守護は鎌倉時代から存在していた機関ですが、室町幕府ではさらに権力を強化しました。鎌倉幕府では、大犯三カ条(大番催促・謀反人の逮捕・殺害人の逮捕)しか役割を与えられていませんでした。

しかし室町幕府は、そこに刈田狼藉の取り締まりと使節遵行という新たな権限を与えます。刈田狼藉とは、他人の土地を自分の土地と主張して、田の稲を一方的に刈り取る行為です。実際には武士同士の争いの中で行われていたため、守護に刈田狼藉を止めさせようとしました。

一方で使節遵行とは、裁判の判決の内容を強制的に執行することです。現代でいうと、他人の家を差し押さえする執行官みたいな権限と考えてください。単純に警察の仕事をするだけではなく、司法の役割も担うようになったのです。

 

半済令が与えた影響

半済令が出されたことによって、日本の社会にもさまざまな変化が訪れました。大きな変化を上げると、以下のように分けられます。

  • 守護の権限をさらに強めた
  • 荘園の解体が始まった
  • 国人一揆を招いた

ここでは、どのような影響を与えたかを解説します。

守護の権限をさらに強めた

半済令で年貢の徴収を認められた守護は、自分たちの権限をさらに強めました。さまざまな仕事を担当するようになった守護は、国土の支配まで手が回らなくなります。そこで代わりの人に支配してもらうため、守護代という役職を作りました。

さらに荘園の年貢は領主が徴収していましたが、これらも守護がすべて担当するようになります。この仕組みを守護請と呼びますが、いよいよ領主は荘園の運営に口出しできなくなったのです。

守護の中でも有力な人は、室町幕府の運営において重要な役割を任されました。鎌倉時代の守護は、あくまで警察としての役割しかありませんでした。

一方で室町幕府では、もはや国を動かす役職の一つです。権限がそこまで強くなかった鎌倉時代と比べて、室町幕府の守護を守護大名と区別されることもあります。守護大名を中心とする、室町時代の社会体制は守護領国制とも呼ばれています。

荘園の解体が始まった

半済令が出されたことで、領主は実質的に荘園の半分を奪われる状態になりました。そもそも荘園とは、貴族や寺院によって管理される私有地です。

運営するにあたって国司から介入されず、税金も発生しないので、領主は土地をどんどん開墾させた歴史があります。荘園の耕作は農民が担当し、領主に年貢(農作物)を納めさせました。

しかし室町時代になると、あちこちで戦が起こるようになります。そこで先述したとおり、室町幕府は荘園の基盤ともいえる、年貢の半分を守護に徴収させたのです。

一方で荘園にて労働を課されていた農民は、この戦乱期において自分たちで村(惣村)を作っていきます。守護が事実上の経営者となり、あくせくと仕事していた農民は自立したことで、領主を主体とする荘園は徐々に解体されました。

国人一揆を招いた

半済令によって権限が強まった守護は、地方の武士をも自分たちの家来にしようと考えるようになります。地方に住みついた武士は国人と呼ばれていましたが、「守護の家来になんてなるもんか」と考える人も少なからずいました。

国人は守護大名に対抗すべく、武士同士の争いをストップさせます。さらに力をつけていた農民も仲間に入れ、一致団結しようとチームを組みました。このチームを「一揆」と呼びます。

皆さんは「一揆」と聞くと、「争い」を連想させるかもしれません。しかし本当の意味は、同じ目的を持った集団のことです。実際は戦ってばかりいるのですが、言葉の意味も正しく理解してくださいね。

 

半済令に関するまとめ

半済令は荘園の年貢を半分徴収する制度であり、軍事費用の調達を目的にしていました。元々は近江・美濃・尾張と範囲が限られていましたが、次第に全国的に普及したのが特徴的です。

半済令を出した結果、室町幕府では守護の権限が強くなりました。守護大名と呼ばれるまでに出世し、地方の武士たちを家来にしようと考える程でした。

こうして守護が荘園の実質的な管理者となり、武士や農民は守護に対抗したわけです。この時代から「一揆」という言葉が出てくるので、「同じ目的を持ったチーム」であると意味も併せて覚えましょう。