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両統迭立とは?持明院統・大覚寺統の存在と後醍醐天皇の即位

鎌倉幕府の政治に陰りが見え始めたころ、京都の天皇家にも大きな動きがありました。今回の記事では、鎌倉時代晩期に見られた持明院統と大覚寺統について解説します。

さらに後醍醐天皇が権力を握り、日本にどういった影響を与えたかもまとめましょう。日本史を勉強されている方は、ぜひ記事を参考にしてください。

 

両統迭立とは

両統迭立の内容についてわかりやすく示している図

両統迭立とは、国を統治する君主が2つに分裂している状態です。鎌倉時代では、持明院統と大覚寺統の2つの派閥が存在しました。それぞれに分けて解説しましょう。

持明院統=後深草上皇の流れ

持明院統は、後深草上皇の流れをくんでいるのが特徴です。後深草上皇は、後嵯峨上皇の子どもにあたります。

持明院統と大覚寺統は、天皇家の荘園を巡る相続でも争いが生じました。結果、持明院統は長講堂領を180ヶ所取得します

大覚寺統=亀山上皇の流れ

大覚寺統は、亀山上皇の流れをくんでいるのが特徴です。亀山上皇は後嵯峨上皇の子どもであり、持明院統の後深草上皇の弟といった立場になります。この記事で紹介する後醍醐天皇も、大覚寺統の一人です。

持明院統との相続問題では、八条院領を220ヶ所取得しました。こちらは鳥羽上皇の皇女である、八条院暲子(しょうし)の領土を指します。

なぜ2つの流れに分かれたの

そもそもこの時期は、なぜ持明院統と大覚寺統の2つに分かれてしまったのでしょうか。その要因は、院政を敷いていたこと、後嵯峨上皇が遺言を残さなかったことにあります。

鎌倉時代晩期では、平安時代末期のように院政を行っていました。院政とは天皇が自分の子どもに位を譲り、自身は上皇として実質的な権力を握る方法です。

後嵯峨上皇は天皇の位を始めは後深草天皇に、続いて亀山天皇に譲りました。しかし上皇としての位を誰に譲るかを、明言せずに亡くなってしまいます

このようにして派閥が、持明院統と大覚寺統の2つに分かれてしまいました。どちらを後継者にするかだけではなく、相続についても争いが生じます。

なお院政の内容については、以下の記事でも詳しく解説しています。日本史の勉強において、重要な分野となるので併せて押さえてください。

院政とはどのような政治か?仕組みを誰でもわかるように解説 - 【資格の教室】ヤマトノ塾

両統迭立として即位する

持明院統と大覚寺統に分かれた天皇家は、どちらとも次の天皇を自分の系統から出そうと考えていました。跡継ぎのことを踏まえると、自分の系統を一番にしたいと思うのは当然でしょう。

無論、両派閥だけで言い争っていても、跡継ぎ問題が解決するわけありません。そこで幕府が間に入り、お互いに10年交代で即位する両統迭立を提案します

両統は、幕府の提案を受け入れる形で話し合いをしました。この出来事を文保の和談と呼びます。

幕府は文保の和談のあと、天皇家の後継者争いには積極的に関与しないことを示したそうです。あくまで僕個人の解釈ですが、幕府は積極的に公家の争いに関わりたくないと考えていたのではとにらんでいます。

しかし皮肉にも両統迭立の案が、ある人物に恨まれる要因の一つとなりました。

 

後醍醐天皇の即位

大覚寺統の後醍醐天皇は、1318年に第96代天皇として即位しました。後醍醐天皇の登場により、鎌倉幕府の運命は大きく変わります。どのような政策をしたのか解説しましょう。

両統迭立に反対していた

後醍醐天皇は、両統迭立に反発心を抱いていた一人でした。彼も自分の系統が天皇に即位することを望んでいたものの、鎌倉幕府の仲介で持明院統と大覚寺統で交互に即位するルールが定められます。

さらに両統迭立により、在位期間は10年と限定されていました。このルールを打ち壊すべく、後醍醐天皇はどうにか幕府を倒せないか考えます。

武力による倒幕を志す

後醍醐天皇が倒幕について考えていたころ、幕府も御家人らの不満が爆発しかけていました。経済悪化で没落した御家人は、悪党となって農民らと力を合わせて荘園の領主に反発します。

このように社会が混乱すれば、当然ながら一般の人々も「幕府は悪!」という風潮が広まります。後醍醐天皇は、この流れに乗じて御家人らとともに倒幕を目指しました。

最初のほうは計画が次々と幕府に漏れてしまい、後醍醐天皇は一度隠岐に流されます。しかし悪党の力もあり、後醍醐天皇側がどんどん優勢な状態となりました。

最後は足利高氏(高氏)や新田義貞の活躍により、鎌倉幕府は1333年に滅びました。

天皇家中心の政治を目指した

後醍醐天皇は、自身が理想としていた延喜・天暦の治を真似ようとします。天皇中心の政治を作り、幕府の存在を認めませんでした。後醍醐天皇の政治は、建武の新政と呼ばれます。

しかし鎌倉幕府が200年以上にわたって権力を握っていたにもかかわらず、今さら天皇中心の政治に戻すのは人々の混乱を招きました。

体制も全く整っておらず、誰がどの立場にいるのかも具体的に決まっていなかったようです。この状態では、チームとしてのサポートはほとんど受けられません。

結果的に武士の反発が起こり、後醍醐天皇は退く形となりました。そこから足利尊氏が権力を握り、室町幕府の成立へと向かいます




後醍醐天皇は幕府を嫌っていたけど、平安の時代に戻すのは無理がありすぎた!

 

両統迭立から学ぶこと

両統迭立は、天皇の位に2つの系統が交互につく方法です。しかし後醍醐天皇のように、自身の系統を永久に天皇に即位させたいと思う人はいるものです。

「平等」という観点では、両統迭立は合理的な政策と見えるかもしれません。ただし解決策をしっかりと考えず、どちらにも良い顔をするのは結果的に状況が悪化することもあります。

両統迭立のように2つの立場を平等にしようとする方法は、慎重に考えなければなりませんね。