鎌倉時代は源頼朝の時代だと思いがちですが、中期あたりは北条氏による執権政治が主流でした。この名前は知っているものの、実際にはどういった政治か知らない人も多いでしょう。
今回は、執権政治の仕組みについて高校生でもわかりやすく解説します。今後の受験勉強や試験勉強の参考にしてください。
執権政治とは
執権政治とは、執権の位に就いた北条氏による政治のことです。鎌倉幕府初期の頃は、源頼朝から源実朝まで「源氏」が中心となって国を引っ張っていました。
しかし天皇側と幕府側の争いである承久の乱が発生し、その戦において北条義時が幕府側に勝利をもたらしました。さらに戦乱前に3代目将軍である源実朝が公暁に暗殺されたことで、源氏として引っ張る者が消滅します。
こうした流れの中で、執権の位に就いていた北条氏が権力を握るようになり、執権政治を敷きました。ちなみに北条義時は戦乱後すぐに死去したため、執権政治の中心を担っていたのは子どもである北条泰時です。
承久の乱については、以下の記事でも詳しく紹介しています。戦乱の内容や戦乱後に何が起きたかを忘れてしまった人は、こちらも参考にしてください。
執権政治の特徴
執権政治には、どういった特徴があるのかを詳しく見ていきましょう。
連署や評定衆を設置した
まず執権政治の仕組みとして、連署や評定衆を押さえる必要があります。
連署とは、執権をサポートする役職です。北条時房が担当となり、執権とともに政治の中枢を担いました。時房のあとも、北条氏の重要人物が連署に置かれます。
一方で評定衆とは、11人の御家人による合議体です。執権や連署と政務に関わるだけではなく、訴訟の裁決も担当していました。北条泰時は評定衆に任じられた者の意見もよく取り入れたといわれています。
御成敗式目を定めた
執権政治の特徴の一つが、1232年に御成敗式目(貞永式目)を定めたことです。御成敗式目とは、武家に向けた法律を指します。
ただし当時の武士たちは教養があまりなく、難しい言葉を知らない人も少なくありませんでした。そのため御成敗式目は、少ない条文(51条)かつ簡易的な言葉で整理されました。
その後、必要に応じて法令の改正や追加がなされます(式目追加)。法典を作成することで、北条氏は武士を自分たちの手中に収めようとしました。
執権政治の移り変わり
執権政治の考え方にはさまざまありますが、鎌倉時代の後期からは次第に姿を変えていきます。鎌倉時代後期の政治の中枢を担ったのは「得宗家(とくそうけ)」でした。
得宗とは北条氏惣領家(本家の家筋)を指し、幕府を私物化した人たちでもありました。政治の形がどのように変わったかを、簡潔に説明しましょう。
北条時頼が反対勢力を追い出す
得宗専制政治のきっかけを作った人物が北条時頼です。北条時頼は引付衆(主に訴訟の裁決を行う)を設けつつ、得宗家に近い反対勢力を幕府から追い出しました。
被害に遭った一人となったのが、北条氏に並ぶ有力御家人である三浦泰村です。北条時頼は安達氏に「三浦泰村を挑発する」よう命令し、彼を自害に追い込みました。この出来事を宝治合戦と呼びます。
北条時宗政権で独裁化が加速する
得宗家の専制政治(独裁政治)が進んだのは、北条時宗の政権になってからです。この頃は元から2度にわたる襲来を受けたものの、見事追っ払うことに成功しました。
こうした問題については、有力御家人の合議によって対応するのが執権政治の主流でした。しかし北条時宗政権ではどんどん薄れていき、独裁的に決定することが増えたようです。
さらに得宗家の専制政治を加速させた事件が、霜月騒動です。こちらは内管領の平頼綱が安達泰盛一族を滅ぼした事件であり、11月に起きたために霜月騒動と呼ばれています。
安達泰盛も有力御家人の一人でしたが、彼ら一族が滅ぼされたために権力がより得宗家に集まりました。
執権政治のまとめ
今回の記事では、執権政治について簡潔に紹介しました。言葉はある程度知っているものの、実態がうまくつかみにくいと感じる人も一定数いるでしょう。
人によっては、執権政治は鎌倉時代の中期〜後期にわたって敷かれたと解釈する人もいます。しかし執権政治と得宗専制政治を分けるほうが、鎌倉時代の変遷も理解しやすくなります。
両者の違いを意識しつつ、鎌倉時代の歴史を勉強するようにしましょう。